⸻ プロローグ 子爵家後継── 僕はそれを、どこか重荷に感じていた。 父は決して厳しくはなかったけれど、 その背中に宿る“ロザリス子爵”としての矜持が、少年だった僕には息苦しかった。 やがて、母が亡くなり。 まだ幼い妹を守らなければと、初めて本気で思った。 そんな頃── 全寮制のレガリア王立学院への入学が決まった。 そして、そこで僕は、 世界でただ一人の運命の人に出会った。 ⸻ 第一章:生徒会執務室にて ──初夏、生徒会執務室。 「そんなところに立っていないで、入ってきてはいかがですか? マリア皇女」 書類に目を通していたギルベルト・ロザリスは、扉の前に立つ少女に目も向けず、そう声をかけた。 マリア・ルクレツィア・レガリア。 この国の皇帝陛下の一人娘にして、正真正銘の皇女である。 「ギルベルト様! 一体どういうことでしょうか? 華陽祭の予算を半分にするなどと!」 「……ああ、その話でしたか。とりあえずお掛けください。皇女様を立たせたままにするのは失礼ですので」 「結構です! 私は皇女としてここに来ているわけではありません。この学院の生徒会副会長としてお話に来ました! 会長様!」 「わかったわかった。……扉を閉めて、そこに座ってください」 ギルベルトはやれやれと肩をすくめ、対面の長机にマリアを座らせると、自らも向かい合わせに腰を下ろした。 ──机の幅は意外と狭く、自然と距離が近い。 「……で? 何がご不満なんです?」 ギルベルトの淡々とした瞳が、真正面からマリアを射抜く。 本来ならば、皇族に対してこのような態度は許されない。 だがマリアは知っていた。この男にとっては、肩書きも血筋も関係ないと。 だからこそ──入学直後、彼女ははっきりと宣言していた。 「私は皇女という立場でこの学園に来たつもりはありません。 上級生の皆さまには一人の後輩として、同級生には対等な仲間として、 先生方にも特別扱いなく見ていただきたいのです」 ──それは、生徒全員の前で語った決意だった。 だが、現実には簡単にいかない。 貴族階級社会の根は深く、皇族に対する敬意と畏れは簡単には消えない。 けれど──ギルベルト・ロザリスだけは、違っていた。 彼は、皇女ではなく“マリア”という少女の意思を正面から見ていたのだ。 ⸻ 回想:副会長任命の春 新学期。 前会長の推薦により、最上級生として生徒会長に就任したギルベルトは、 新たな生徒会の場で、副会長に“あの皇女”の名を告げた。 「副会長には、マリア・ルクレツィア・レガリアを任命する」 ──それは、事実上“次期会長候補”という意味を持つ。 周囲に異論はなかった。 彼女は皇女だから、当然だと。 だがマリアは、その場で問いを投げた。 「ギルベルト様。わたくしが副会長に選ばれた理由を、お聞かせ願えますか?」 ──もし「皇女だから」という言葉が返ってきたなら、彼女は即座に辞退するつもりだった。 だが返ってきたのは、静かながら力強い言葉だった。 「理由? 自分で考えてください。 君がここで“何を為すべきか”を。 僕はただ、何かを為す“かもしれない”人を選んだだけです」 それは、かつてギルベルトが前会長に言われた、まさにその言葉だった。 「……っ」 思わず目を見開いたマリアは、しかしすぐに微笑み── 「畏まりました。拝命いたします」 その胸は、確かに高鳴っていた。 皇女ではなく、“自分”を見てくれた人がいる。 そんな経験、今まで一度もなかったのだから。 ──華陽祭。 それは、レガリア王立学院で一年に一度開催される、最大規模の学園行事である。 生徒たちが主催し、各クラスや部活動がアトラクションや出店を運営。 音楽、絵画、演劇などの芸術も披露され、学院の教育方針を“実際に見る”ことのできる絶好の機会でもある。 そのため、子息令嬢を通わせている貴族たちも多く足を運び── 華陽祭はまさしく、学園の“顔”とも言える催しだった。 そして、それはマリア・ルクレツィア・レガリアにとっても、特別な意味を持っていた。 副会長として、皇女として、そして何より──学院の一員として。 「この祭りを、完璧なものにしたい」 そう、強く願っていた。 しかし──その思いは、ある一言によってあっさり打ち砕かれることとなる。   「華陽祭は、生徒たちも保護者たちも楽しみにしている重要なイベントです。それを──」 「マリア様。まずはこちらをご覧ください」 生徒会長席に座るギルベルト・ロザリスが、静かに一冊の帳簿を差し出す。 中身は──昨年の華陽祭における、生徒会からの予算支出と、実際の収支をまとめたものだった。 「……これは……?」 「昨年の予算と収支です。ご希望であれば、過去数年分のデータもお見せしますよ」 淡々とした口調で、ギルベルトは次々に過去の台帳を並べていく。 目の前に広がる数字の羅列。 マリアの指先が止まる。眉がひそめられる。 「……まさか、赤字?」 「その通りです」 ギルベルトは静かに腕を組み、大きく息をついた。 「派手な装飾や、見栄えを優先した舞台設営、過剰な食材発注── その場はたしかに盛況だった。だが肝心の運営は、毎年のように赤字続きです」 「でも、それでは……!」 マリアの声がわずかに震える。 彼女にとって、この祭りがどれほど大切か──彼も、知っているはずだった。 だが。 「もちろん、祭りが華やかであることに異論はありません。けれど──“続けられなければ意味がない”」 静かに放たれたその言葉に、マリアは言葉を失った。 「僕たちは、次の代に引き継ぐ責任があります。 学園を出れば、近い将来、生徒たちは“領地経営”という現実に直面する。 赤字を繰り返す運営をよしとしてはいけない。──僕はこれを公開しようと考えているんだ」 「……っ」 正論だ。 痛いほど、正しい。 それが分かるからこそ、悔しかった。 けれど── マリアの胸に灯ったのは、反発だけではなかった。 (彼は……学院の“今”だけじゃなく、“未来”を見ている) 気づいた瞬間だった。 彼女は初めて、ギルベルトという男に“敵わない”と認めたのだ。   「……僕たち貴族は、領民が苦労して作った成果で生活している。 だからこそ、今この場所で学ばなければならないことがあると、僕は思っています」 ギルベルトは、帳簿をそっと閉じた。 「それは──対価と報酬の適正化。 何かを得るには、必ず“何か”を支払っているという事実を、忘れてはならない」 「これはただの数字の羅列かもしれない。けれど── その数字に、どんな意味があるのかを知ることこそ、僕たちが学ぶべきことなんです」   その言葉は、マリアの胸の奥に深く、静かに落ちていった。 皇女ではなく、一人の“生徒”として。 この学び舎で、何を学び、何を残すべきか── 彼の言葉は、確かに彼女の価値観を揺さぶっていた。   「では……クラス対抗で利益を争ってはいかがでしょう? 一番利益を出したクラスまたはグループに“勲章”を与えて、一年間制服につけられるようにするとか」 マリアは白い紙にペンを走らせながら、思いついた案を次々と書き殴っていく。 その様子を見たギルベルトは、ふっと笑みを浮かべた。 「……いいんじゃないか? 数字を意識させること。読み解くことは──最も重要なことだ」   その瞬間。 “皇女”と“子爵”という肩書きを超えて、 ふたりの意志が初めて、真正面から交差した。 華陽祭まで、残り二週間── 学院内は次第に騒がしくなり、各クラスや部活動が準備に奔走する中、生徒会室には常に紙の束が積まれていた。 進捗報告、備品申請、衛兵の増員許可、衛生面チェック── その全てに目を通し、判断を下すのが生徒会長と副会長の仕事だった。 「この予算では、B組の調理台が足りませんわ。追加で借りるしか……」 「その分、C組の装飾費を削りましょう。優先順位を明確に」 「でも、それでは美観が……!」 「安全が第一です。事故が起これば、祭り自体が中止になりかねません」 ギルベルトは冷静な口調で指示を出しつつ、手早く帳簿に書き込みをしていく。 その指の動きは迷いがなく、まるで何年もそれをこなしてきたかのように洗練されていた。 (──すごい) マリアは黙ってその横顔を見つめていた。 漆黒の髪と。凛とした横顔。 落ち着いた声と、冷静で的確な判断。 そして時折、机の上に散らばった書類を整えながら、彼はふとした拍子に彼女を気遣う。 「……少し、目を閉じて深呼吸を。肩が上がってますよ」 「えっ……あ、うん……ありがとう」 そんな何気ない一言が、なぜか胸に残る。 冷たいと思っていたのに──こんなにも、細やかに人を見ている。 (私は……彼のこと、誤解していたのかもしれない)   ──ある夜。祭り前日まであと三日。 誰もいない生徒会室に、ふたりだけの時間が流れていた。 ガラス越しに見える夜の校庭。 ロウソクの灯りが静かに揺れる中、ふたりは資料に向き合っていた。 「……今日も遅くまで、ありがとう」 「お互い様ですわ。会長こそ、寝ていらっしゃいますの?」 「……君が寝るまでは、無理でしょうね」 「……っ」 思わずマリアは顔を伏せた。 それがどういう意味か、すぐには受け止めきれなかった。 けれど──胸の奥が、ひどく熱くなった。 ほんの一瞬…視線が絡む。 (あ……) すぐにどちらからともなく顔を背けるが、 その一瞬が、やけに長く感じられた。 静かな沈黙。 けれど、その沈黙さえも嫌ではなかった。 ──準備期間・前夜/執務室にて 放課後の生徒会執務室。 外はすっかり夕暮れに染まり、窓越しに差し込む橙の光が、重ねられた書類の端を静かに照らしていた。 華陽祭前夜。 教室では各クラスが最後の仕上げに奔走する中、生徒会の執務もようやく一段落しようとしていた。 「……ふう」 背もたれに軽く寄りかかりながら、マリアはそっと伸びをした。 ギルベルトは黙々と最後の確認を終え、書類をひとまとめにする。 一瞬の静寂が訪れたのち── 「そう言えば、後夜祭……」 ぽつりと、マリアが口にした。 ギルベルトは動きを止め、書類の上から目を上げる。 「後夜祭か……そうですね。たしか、エドワード様が今年から在学されていますね」 「ええ。だから、エスコート役としては……」 と、言いかけて──言葉を濁す。 弟のエドワードは立場上“見栄え”としては申し分ない。 けれど、あの自由人を舞踏会のパートナーに据えるのは、正直、心労が先に立つ。 その意図を察したのか、ギルベルトは淡く笑った。 「リリアン様は、まだ一般参加できませんからね。マリア様がお相手されるのが一番問題ないでしょう」 そう言って、彼は柔らかな口調で続けた。 「僕は、後夜祭は裏方をやるつもりです。なので、どうか気にせず楽しんでください」 「……そう…ですね。ありがとうございます。」 何でもないことのように告げられたその言葉に、マリアの胸が微かにざわついた。 “裏方に回る”──その意味を、今になって意識する。 (……彼は、私と踊る気なんてない) 何を期待していたのか。 その気配に、自分の内側が少し苦くなる。 そんな彼女の沈黙を埋めるように、ギルベルトはふと、視線を落としながら言った。 「……その代わり、と言ってはなんですが」 「?」 「昼の時間を、少し譲ってもらえますか。妹が来るので、案内したくて」 「──あ」 思わず、口が開いた。 彼の“妹”──それが誰を指すのか、マリアはすぐに理解する。 (そういえば……歳の離れた妹がいると……) ギルベルトの表情は、いつもより少しだけ、柔らかかった。 それがまた──マリアの胸に小さな違和感を残した。 けれど、彼女はすぐに微笑みを作り、頷く。 「……ええ。了解したわ。華陽祭、存分に楽しんでちょうだい」 「ありがとうございます」   ──その瞬間だった。 書類を片付けようとしたギルベルトの指先が、彼女の手とほんの一瞬、重なった。 「っ……」 お互い、無言のまま、手を引っ込める。 机の上。視線が交錯する。 ──ただ、それだけのことなのに。 (どうして、こんなに──) マリアの鼓動が、どくり、と跳ねた。 彼の表情は変わらない。いつものように冷静で、理知的な瞳。 けれど、その目に映った“自分”を意識してしまった瞬間、 彼女はもう、誤魔化しきれなくなっていた。 ──私は、今、恋をしている。 そう、静かに確信したのだった。 ──華陽祭・当日。 秋晴れの空に、学院の鐘が高らかに鳴り響く。 門が開かれると同時に、生徒たちの準備した屋台や展示が一斉に賑わいを見せはじめた。 各貴族の家族や、来賓たちが続々と来校し──その中に、ロザリス家の馬車もあった。 「兄様っ、はやくはやくっ!」 学院に到着するや否や、飛び出すように駆けていくのは、ギルベルトの妹──ヴィヴィアン。 「こら、走るな。危ない」 苦笑を浮かべながらも、小さな手を取り直すギルベルト。 今日は、生徒会長としての役目はもちろん、兄として妹を案内する“特別な日”でもあった。   「あのねっ、昨日お兄たんが言ってた『チョコバナナ』って、こっち?」 「そうだ。じゃあ先に案内して──その後、展示棟を回ろうか」 小さな手を引いて歩くギルベルトの姿は、普段の冷静沈着な生徒会長とはまるで違って見えた。 その様子は多くの生徒たちの目にも留まり、昼過ぎにはこんな噂が駆け巡ることになる。 「ロザリス様、あんな表情されるんだね……」 「妹さん、可愛すぎる!」 「ぎる兄様〜って呼ばれてた……やばい……」   けれど、マリアは──その場にはいなかった。 準備の確認や来賓対応のため、午前中は常に動き回っていたのだ。 後になってこの噂を耳にし、彼女はぽつりと呟くことになる。 「……見たかったな。ギルベルト様の、そんな顔」 それはほんのわずか、胸の奥に残る“棘”のような想いだった。   ──そして、陽が傾くころ。 祭りの締めくくりとなる「後夜祭」がはじまった。 生徒たちは礼装を身に纏い、華やかに装飾された講堂に集まってくる。 控室では、マリアも一人、薄紅のドレスの裾を整えていた。 (後夜祭──今年は、エドワードが在籍しているから、エスコート役は……) 「姉様お待たせ。」 どこかまだあどけなさの残る弟はいつのまにか身長が伸びて、少しだけ…いつもより頼もしく見えたが…マリアの心は少し沈んでいた。 ──盛況に終わった後夜祭。生徒たちはそれぞれ余韻を抱えながら帰路についた。 けれど、講堂にはまだひと組、残っている者たちがいた。 ひっそりと灯されたシャンデリアのもと。 ──ギルベルトは、生徒会長の制服のまま。 ──マリアは、まだドレス姿のまま。 その光景は、まるで“身分違い”のふたりを示すように、ちぐはぐだった。 だが── ♪ 音楽が流れると、不思議なほどに足取りはぴたりと揃った。 「……驚いた。エドワードよりも、踊りやすいかもしれない」 マリアが冗談めかして言うと、ギルベルトは微かに眉を上げる。 「恐縮です。……昔、母に仕込まれたもので」 「……そうなの」 ひとつ、ふたつとステップを刻むたび── 胸の奥に、言葉にできない感情が満ちていく。 それはまだ、恋とは呼べない。 けれど。 「……来年も、踊ってくれる?」 「……卒業してますからね。でも……その時は、生徒会の来賓として戻ってきますよ」 「……ほんとに?」 「ええ。約束します」 そう言って、ギルベルトはマリアの手をそっと取ったまま、優雅に一歩踏み出す。 それは、未来にはいないはずの彼と、 未来を視ることを覚えた彼女が交わした──ほんの短い、約束の踊りだった。   ──華陽祭が、幕を閉じる。 けれどこの瞬間こそが、ふたりの心に深く刻まれる“はじまり”だった。   ──季節は、春から初夏へと移り変わっていた。 華陽祭の熱狂が過ぎ去った学院には、静かな日常が戻ってきたかに見えた。 けれど、それはあまりにも突然だった。 「──危ないっ!」 階段の踊り場、足を滑らせて落ちかけた下級生。 その子を咄嗟に庇ったのは、生徒会長・ギルベルトだった。 ドンッと重たい音が響いた次の瞬間、ざわめく生徒たちに囲まれながら、彼は意識を失って倒れていた。   ──学院内の医務室。 専属医師と補助者が常駐し、応急処置と確認を終えたギルベルトは、安静のためベッドに寝かされていた。 そこへ駆け込んできたのは──マリアだった。 「ギルベルト……っ!」 普段は凛とした皇女の顔が、今にも泣き出しそうなほど強張っていた。 その手は震え、制服の袖が握りしめられている。 「なぜ…こんな無茶を……」 言葉にならない想いが、溢れ出しそうになったそのとき。 ──ギルベルトは、目を開けた。 「……マリア、様……?」 「っ……!」 その声を聞いた途端、マリアは膝をつき、ベッドに額がつきそうなほど顔を伏せた。 「よかった……!」 その声音には、気高い皇女の影はなかった。 ただ、一人の少女として、大切な人の無事を願った──純粋な涙だった。   ギルベルトは、静かに手を伸ばし、彼女の肩に触れる。 「……大丈夫です。鍛えてますからね。打撲と捻挫だけで済みました。大事には至ってませんよ。」 「でも……でも……!」 マリアは顔を上げる。 その目には、涙の跡と強い光が宿っていた。 「あなたが居なくなったら…わたくし、どうすれば…!」 その言葉に、ギルベルトの表情がかすかに揺れた。   彼の瞳には、ふと──幼い妹、ヴィヴィアンの姿が重なった。 あの子も、何度も自分が怪我をする度、自分の無事を願ってくれていた。 (……心配するな。俺は、ちゃんと守る) そんな想いを込めて、彼は優しく言った。 「……マリア様。俺は、ここにいます」 「……ギルベルト……」   けれど。 マリアは震える声で、けれど、はっきりと口にした。 「……私、あなたが……好きです」 沈黙が落ちる。 外では、初夏の風が木々を揺らしている。   「……」 ギルベルトは、何も言わなかった。 彼の表情は変わらない。 けれど、胸の内では嵐のような葛藤が渦巻いていた。 (……マリアは、“皇女”だ) (そして俺は、ロザリスの子爵家。いずれ家を継ぐ立場……) (──それに、ヴィーのことも) 誰よりも強く、誰よりも理想を語るこの少女に、惹かれている。 それは確かだった。 けれど、それを“愛”だと認めてしまえば。 未来を背負う者として──あまりにも甘く、無責任な言葉になってしまう。   だから、ギルベルトはただ、目を閉じた。 「……今は、答えを出せません。申し訳ありません」 「…答えが欲しいわけじゃなかったの。伝えたかっただけ。私があなたを…好きだと言うことを。」 そう言って、マリアは立ち上がる。 そう。マリア自身もわかっているのだ。 「でも、無事でよかった。それだけで、今は充分です」 そう言って彼女は、扉の前でふと振り返った。 「……私、待てるわよ。何年でも、何度でも」 その瞳には、まっすぐな決意が宿っていた。 そして扉が閉まり、医務室には再び静寂が戻った。 ──ギルベルトは、拳を握ったまま、目を閉じる。 (……彼女に惹かれている。けれど) (“好きだ”と、言ってしまえば──) (その言葉が、彼女の未来を縛ってしまう) だからこそ、彼は今は言えなかった。 けれど、胸の奥では確かに── 何かが、ゆっくりと芽吹き始めていた。 ──医務室事件から数日。 ふたりの間には、微妙な沈黙が流れていた。 廊下ですれ違えば目が合う。 けれど、どちらからともなく話しかけることはなく── まるで、何かを避けるように。 そんなある日の放課後。生徒会執務室にて。 マリアが書類に目を通していると、背後から控えめな声が響いた。 「……マリア様。先日の件ですが……」 その声に、マリアの肩がぴくりと揺れる。 彼女はゆっくりと振り返り、ため息まじりに微笑んだ。 「ええ。今、わたしたちがこんな気まずくなってる原因よね……あなたを困らせるのはわかってた。ごめんなさい。」 ギルベルトは、小さく首を振った。 「いいえ……僕の方こそ、すみませんでした。 ……本当は、初めからきちんと話すべきだったと思ってます」 そこで一度、言葉を切って── 彼はまっすぐに、マリアの瞳を見つめる。 「──結論から言えば、僕も君に惹かれている」 その言葉に、マリアの目が見開かれる。 けれど、そのまま続いたギルの言葉は、現実という壁を突きつけるものだった。 「……でも、学園を出れば君は“皇女”で、僕はただの子爵家の跡取りだ。君は──」 「やっぱり、そう言うのね」 マリアは、悔しそうに口を噤む。 それは最初から分かっていた。 けれど、言葉にされると──どうしようもなく、胸が苦しくなる。 「……でも、わたしは言ったはずよ。“皇女”としてここに立っていない。それは、これからも変わらないわ」 「それは……どういう意味ですか?」 ギルの問いに、マリアは一歩、彼に近づいた。 「大事なのは、“立場”や“将来”じゃない。 わたしとあなたが、“どうしたいか”じゃなくて?」 ギルは言葉を失った。 それは、彼自身が何度も、心の奥で問い続けてきたことだった。 「……けれど、マリア様。僕は──」 「私、あなたと一緒に未来を見たいの」 その声は震えていたけれど、確かな意志を持っていた。 「あなたの隣にいたい。それがわたしの“願い”よ」 沈黙が落ちた。 やがて、ギルベルトはゆっくりと手を差し伸べる。 「──それでも、君がそう言ってくれるなら。 ……僕も、君の隣に立ちたいと思う」 マリアの瞳が、涙に揺れた。 「……本当に?」 「本当に」 ふたりの距離が、ひとつだけ、縮まった。 ──誰にも祝われない、誰にも認められないかもしれない。 けれど、ふたりが“選んだ”恋の始まり。 それは、静かに、確かに──歩き出した。 • マリアが“マリア”として、ここに立っている。 それは、皇帝陛下──彼女の父すらも認めた事実だった。 「お前が望むようにしなさい」 レガリアには、女王の即位制度はない。 けれどだからこそ、皇女であるマリアには「選ぶ自由」があった。 かつて彼女は、父にこう言った。 「わたくしは、“わたくしらしく”生きていきたいのです」 その想いを、今この瞬間──彼女は彼の前で、誇りを持って貫いた。 誰のためでもなく、 王家のためでもなく、 ただ“ひとりの少女”としての、選択を。 そして、ギルベルトはその覚悟に──心から応えたのだった。 ──秋の午後、レガリア王立学院・生徒会執務室にて。 ふたりきりの空間に、書類をめくる音だけが静かに響いていた。 「……この予算案だけど、備品費の内訳が少し気になるわ。去年と比べて妙に高い」 「はい、確認します。……あ、たしか書庫の方に、前年度の明細が──」 ようやく、穏やかに話せるようになった。 数日前の“医務室の件”からこっち、微妙な距離が続いていたが、少しずつ元に戻りつつある。 いや──むしろ、それ以上に。 マリアとギルベルト。 皇女と子爵家の嫡男という立場ではなく、“ひとりの少女と青年”として、心が近づき始めていた。 ──そんな時。 扉が勢いよく開かれ、生徒が駆け込んできた。 「会長!たいへんです!」 ギルベルトが顔を上げると、慌てた様子で生徒が叫んだ。 「正門の前に──“会長の妹”と名乗る女の子が来ています!」 「妹……?」 ギルの眉がわずかに動く。 その一瞬後── 「名前は、ヴィヴィアンだと──」 「……ヴィー!?」 椅子を蹴るように立ち上がり、ギルベルトは一気に走り出す。 「ギル……!」 マリアも思わず立ち上がり、慌ててその後を追う。   ──正門前。 そこにいたのは、泥だらけのドレスをまとった小さな女の子だった。 (……まさか) (まさか、こんな姿で) 「ヴィー!?」 駆け寄ったギルが、その場に膝をつく。 「なんでこんなところに?それより酷い格好じゃないか?」 顔には擦り傷、ドレスはボロボロで泥だらけ。 「ギル兄様!怪我はないので大丈夫です。誘拐犯から逃げてきました。保護していただけますか?」 と、いつもの妹よりしっかりとした口調で説明される。 「…は?誘拐?え?」 一瞬何の話か理解が追いつかない。 「と…とりあえず…マリア様。妹をお願い出来ますか?」 「ええ、お任せくださいませ…」 「わたしは学長への報告と実家へ連絡をしてきます。ヴィー。学園の中は安全だからな。マリア様は兄様の学友だから安心するといい。ついていきなさい。兄様も後で行くから…」 マリアを見て目を丸くする妹を彼女に託し、管理棟へと走った。 「ヴィーちゃん?大丈夫?お姉さんといけるかな?」 「は…はい。すみません」 (こんな小さな子を誘拐だなんて…かわいそうに…怖かったでしょうに。) (とりあえず、お風呂、着替えは済ませたけど…) 「よかった怪我がなくて。ギルの大切な妹さんですものね」 (そう…この子は彼の大切な家族…) 「マリアさま。えっと。ありがとうございます。ご挨拶がおくれて申し訳ございません。わたくし、ヴィヴィアン.ロザリスと申します。不躾で失礼いたしますが…皇女殿下でお間違いないでしょうか?」 (驚いた…確か10歳だと言っていたけれど…これは…ロザリス家の教育なのかしらね?) 「しっかりしてるのねぇ。ギルよりしっかりしてるのではないかしら?」 ふわっと小さな彼女の頬に触れるとほんのり温かい。 妹…か。ギルが守りたいって思う気持ちがわかるわね。 丁度その時、ギルベルトが戻って来た。 「マリアすまない。助かったよ。 父上には連絡したから、明日迎えに来るそうだ。」 慌ててたのか、髪も服も乱れていた…。 しばらく、ヴィヴィアンが固まっていることに気づいたギルベルト 「ヴィー?どうした?」 ギルベルトの手がヴィヴィアンの頭を撫でる。 と、ポロリと彼女の目から涙が溢れた。 (やっぱりこわかったのね。ギルベルトに会って安心したんだわ…) 「ヴィー!?どうした?どこか痛いか?」 「…あれ?え?いぇどこも…」 (気丈な子。だからこそサインを見逃してはいけない…) ギルベルトに抱きしめられていたヴィヴィアンが突然口を開く。 「兄様。マリア様。不躾ですみません。あのお二人は恋人同士でしょうか?」 (え?)マリア (は?)ギルベルト 「違ったらすみません。ですが、えーっと…」 「ヴ…ヴィー?急にどうした?」 「ギル。いいじゃないですか。大切な妹さんでしょう?卒業したら私の妹になる方ですもの。」 (彼の家族に受け入れられたら…こんなに嬉しいことはない…) だが、ヴィヴィアンが紡いだ言葉は2人をたちまち不安にさせた。 「兄様。マリア様。わたくしの誘拐の原因がお二人の関係にあるといったらどうしますか?」 まさか、自分たちが関わっているとは夢にも思わなかった。 「連れ去られた時に犯人が言っていたのです。兄様が失墜すればマリア様は他の方が娶られる…と」 なぜ、そんな話になっているのか… 「なんだって…?」 「ですから、兄様。マリア様。 周りの方にお気をつけください。ヴィヴィアンは兄様たちの幸せを願っています。ですから今はどうか…」 「…わかった。ありがとうヴィー。」 「賢い妹君ですわね。感心いたしましたわ…ヴィヴィアン嬢の忠告はしかと胸に刻みますわ」 「ヴィー。しばらく会わないうちに大人…レディになったな」 ふたたび、ギルベルトがヴィヴィアンの頭をクシャッとなでる 「ヴィヴィアンは兄様のために子爵家を支えます」 優雅に挨拶をするとギルベルトはヴィーを抱き上げそして優しく抱きしめる。 「ヴィーは兄様の宝物だ。兄様が必ず守るからな!」 その夜━━━━━━━ 翌日、父の迎えが来るまで、ギルベルトと過ごすことになったヴィヴィアン。 ギルベルトにとっては数ヶ月振りの妹との時間だった。 「ヴィー?眠れないのかい?」 ヴィヴィアンの気配を察したギルベルトが声を掛けると、 ヴィヴィアンはベッドから体を起こし、ギルベルトに向き直る。 「兄様。ちょっとお話しいいですか?あの。私少し考えてて…マリア様がお姉様になる為にするべき事を…」 そこにはギルベルトが知っている無邪気な10歳の少女ではなく、知的な雰囲気を纏う妹がいた。 「ヴィー?突然何をいいだすんだい?」 何か…いつものあのかわいらしい妹が遠くに行ってしまったような…不思議な感覚を覚える。 「う…ううん。あのね。兄様。ヴィヴィアンはマリア様がお姉様だったら嬉しいなって思ったの。だからね…」 少女らしい答えにほっとして力を抜くギルベルトにヴィヴィアンは続ける。 「えーと。マリア様はお姫様でしょう?だからね。ヴィヴィアンたちのお家を頑張ってお金持ちにしなきゃって思うのね。」 「うんうん。それで?」 「わたしね。最近知り合った商人のおじさんにちょっと商売のこと教えてもらっててね。 だから。おうちのお手伝いできないかなって。」 「ヴィーはそんなことしてたのか。そうかそうか偉いぞ」 なにかチグハグなことを言っているが、自分の為に、家の為にと思考を巡らせる彼女にこころが温まっていく。 「ヴィー。兄様のこと考えてくれてありがとうな。ヴィーがマリアのこと気に入ってくれたのが1番嬉しいよ」 (そう。僕たちには課題が山積みだ…だからこそ。ヴィーが彼女に懐いてくれたのはその一歩…) 「さぁ、ヴィー寝なさい。明日は父上が迎えに来るから。兄様とはしばらく会えないけど、ヴィーが心配しないようにちゃんとマリアとのことは隠しておくから。」 「兄様。お願いね。きっとよ」 小さく縋るような彼女の願いは自身の為ではなく自分とマリアの為だと言うことが誇らしかった。 妹の体温がいつしか心地よく。ギルベルトは眠りに落ちていった。 ──朝の光が差し込む女子寮の一室に、控えめなノックの音が響いた。 「失礼します。マリア様、ヴィヴィアンでございます」 ドアの向こうから聞こえたのは、あの小さな女の子の声だった。 「ヴィーちゃん?」 急いでドアを開けると、そこには昨日よりも少し落ち着いた表情を浮かべたヴィヴィアンが立っていた。 淡いピンクのワンピースに着替え、髪もきちんと結ってある。 その姿は──“可憐なご令嬢”というより、“戦いに挑む小さな騎士”のようで。 「どうしたの? まだお父様のお迎えは……」 けれど、彼女は真剣な眼差しで言った。 「本日こちらを後にしますので昨日のお礼と。それから……ヴィヴィアンはマリア様が大好きです。 だから何があっても、マリアの味方になると誓いに来ました!」   ────え? え、え、え??????? あまりに突然の“愛の告白”に、一瞬思考が止まった。 (……えっ、えぇ!? かわいい……かわいい……かっっわいいぃぃ!!!) 感情が膨れ上がって、もう止まらない。 その場にしゃがみ込んで、思わずギュッと抱きしめてしまった。 「ヴィーちゃん……ありがとう。私も大好きよ!」 「……!」 「あなたが本当に妹になるのを、とっても楽しみにしているわ!」 ふわっと、小さな身体がぴくりと震えたのを感じた。 その震えが、少しでも安心や喜びに変わっていたなら、こんなに嬉しいことはない。 (……この子は、ギルベルトにとっても、私にとっても、大切な人になる) (ならば──) 「これからも、たくさんお話して、たくさん笑って、たくさん仲良くしましょうね」 抱きしめたまま、耳元で囁く。 ヴィーちゃんは、こくんと頷いてくれた。   ──この子を、守りたい。 そう、心の底から思った。 ただギルベルトの妹だからじゃない。 私自身が、彼女の笑顔を見たいと思ったから。 「ねえ、ヴィーちゃん」 「次に会う時は、“姉妹”として手をつなぎましょう」   ──小さな手が、確かに未来を繋いだ。 たとえ“血”でなくとも、“想い”で繋がる“家族”の絆が、いま結ばれた。 ──約束の夜、秘めたる誓い レガリア王立学院、夜の静寂。 窓の外には満ちかけの月が浮かび、 涼やかな風が帳を揺らしていた。 生徒会執務室の灯はすでに落とされていたが、 その奥のテラス──白い柵にもたれて並ぶふたりの影があった。 ギルベルトと、マリア。 ヴィヴィアンが学院を後にしてから数時間。 “嵐”のような一日が過ぎ、ようやく落ち着いたひとときだった。 「……まさか、こんな形でお会いするなんて思わなかったわ。あなたの妹さん」 マリアがぽつりと呟く。 「僕も、だよ。泥だらけのドレスで現れて、“誘拐犯から逃げてきました”なんて……」 苦笑ともつかぬ声を漏らしながら、ギルは月を見上げた。 「……あの子が言ったこと、気にしてる?」 「気にしないわけがないだろう」 返ってきたのは、静かな声。 「“僕たちの関係”が誰かの標的になった……そう言われたんだ。しかもヴィーが傷ついて」 「……」 ふたりの間に、一瞬、風だけが吹き抜ける。 「だけど、それで“終わり”にしたくない」 ギルは、まっすぐマリアを見た。 「僕は……君が好きだ。出会った時からずっと──ぶつかって、すれ違って、それでも」 「君を失いたくない」 強く、けれど震えるような声で。 マリアは、その言葉を黙って受け止めた。 「……私もよ、ギル」 彼女の瞳は、揺れていなかった。 「あなたと出会って、初めて“選ばれるだけの自分”じゃなく、“誰かを選ぶ自分”になれた」 「私だって、あなたを失いたくない。……けれど──」 そこで、言葉が止まる。 けれど、ギルがゆっくりと首を振った。 「……分かってる。だから、“今はまだ”公にはしない。ヴィーのためにも、君の立場のためにも」 「……秘密にしよう。この想いは、僕たちだけのものとして」 月明かりの下、ふたりの視線が交わった。 「でも、いつか」 「ええ、“いつか”──誰にも邪魔されない形で、また」 ふたりはそっと、小指を重ねた。 それはまだ幼い誓いのようでいて、 誰よりも真剣な未来への契約だった。 「この関係が“弱さ”ではなく、強さになるその日まで」 「共に、立ち続けましょう」 月が雲間に隠れた瞬間、 風がふたりの影を、そっと一つに重ねた。 ──学院の離れ、夜の図書閲覧室。 灯りは落とされ、窓から月光だけが差し込む静かな空間。 本の香りとインクの匂いが残る中、二人の影が向かい合っていた。 「……お願い、少しだけ時間をちょうだい。誰にも聞かれたくない話なの」 マリアのその声に、15歳の少年──マリウス・フロストリアは、ゆっくりと頷く。 「ええ、マリア様。貴女のお願いなら」 「実は──今日、ロザリス子爵令息の妹が、学園へ助けを求めて現れたの」 「妹……? ギルベルト殿に?」 「ええ。“誘拐されていた”と……本人が、そう言っていたわ。詳細はまだ不明だけれど、決して子供の嘘ではなかった」 マリウスの瞳が静かに光を宿す。 「──なるほど」 「誰かが、ロザリス家を狙っている。そう、感じたの。 しかもその誰かは、“わたくしとギルベルト”の距離に、明確に反応してきた」 「……つまり、“あなた方の関係”が引き金になった可能性がある、と?」 「そう。だから……“誰にも言えない”けれど、“誰かに相談したかった”の」 少しだけ、マリアの声音が震える。 マリウスは机の上の羽ペンを弄びながら、小さく口を開いた。 「マリア様に、“結婚の話”が出ているのは……ご存知ですか?」 「……え?」 唐突な言葉に、マリアは目を見開いた。 「まあ、随分と前からです。──相手は、私です」 「マリウス……!?」 「ご安心を。ただの予防線ですよ」 彼はさらりと言ってのけた。 「皇女の嫁ぎ先は、政治の均衡を大きく揺るがす。 貴女の“自由意思”が、そのまま国家間の火種になることもある」 「そんな……わたくしの意思が……」 「だからこそ、“万が一”に備えて“仮の許嫁”として、私の名前を出しておく。 それだけで、“急進的な求婚者”の多くは身を引くでしょう」 「……優しさで、そんなこと……」 「違います」 少年の目が、静かに鋭さを宿す。 「これは“警告”です。──蛇のように静かに、近づいてくる者がいる。 すでにロザリス令息とあなたの距離に、勘づいている気配がある」 「っ……」 「狡猾で、執念深い──手段を選ばぬ者。 ……お気をつけください、マリア様」 風が静かにカーテンを揺らす。 マリアはその風音の中で、少年の“誓い”にも似た言葉を、静かに受け止めた。 「ありがとう、マリウス。……貴方に話してよかった」 「いえ。私はただ、“あなたの選択肢”を守るだけです」 そしてこの“ひと夜の相談”が、やがて── バルドへの疑念へと繋がり、“契約婚”という道を照らすことになるとは…… このとき、まだ誰も知らなかった。 ーーー 帰郷したギルベルトを迎えたのは、冷たい風と、鈍い沈黙だった。 執務室の扉を開けた瞬間── 枯れたような声で「……ギルベルト……」と呼ぶ父の姿が、ベッドに横たわっていた。 「……父上」 「……間に合ったか……すまないな……」 その日、ギルベルト・ロザリスは“子息”として、ただ父の手を握っていた。 そして三日後── ロザリス子爵、他界。 ⸻ 継ぐべき名と、背負う覚悟 ロザリス子爵家の後継については、一時保留となった。 ギルベルトはまだ在学中。卒業までは数ヶ月を要する。 しかし── ロザリスの領民たちは動いていた。 次期子爵としてギルを推す署名が、村から村へ、街から街へと静かに広がっていく。 「……あの子に背負わせるには、まだ早いかもしれん。だが、あの子しかおらん」 「令嬢もお強くなられました。きっと、支え合っていけるはずです」 それは、ロザリス家が長年築いてきた信頼の証── そして、領民たちが“未来”を託した選択だった。 ギルベルトは静かに口を開いた。 「……みんな、ありがとう。少しだけ待っていてほしい。  卒業後、正式に子爵位を継ぐと誓う」 その声に、もう迷いはなかった。 ⸻ 鳥籠に放たれた鎖──皇女の縁談 だが── 彼が学園を離れている間に、動いた者がいた。 「……シャルル・ド・バルド公爵より、皇女殿下との縁談の申し出があった」 その報せを聞いたマリアは、まっすぐ立ち上がった。 「……断固、拒否します」 「気持ちは分かる。だがバルド家は無視できん。  せめてフロストリアの息子が成人していればな……。  お前の望むロザリス家は、今や疑惑の渦中にある。もとより、強い家ではない。  この状況で、承認を得るのは──難しい」 「それでも……父上……!」 その場でマリアは、力の限り拒絶した。 だが、王宮の壁は高く、そして、冷たかった。 ⸻ 皇帝の密命──その影、未来を護る者たち 「──ルーレウス・トィレンツィア」 「ここに」 皇帝は、静かに視線を落とす。 「……娘が選んだ男。その真価を見極めよ。  ──それと、娘と彼の身に何かあった時は、迷わず斬って構わん」 「畏まりました」 その背後には、ひとりの少年が立っていた。 銀髪の、静かな瞳を持つ少年── マリウス・フロストリア。まだ十五の若者でありながら、確かな観察眼と知略で皇帝に進言した者。 「……あのバルドの動き。気づいている者もいるはずです。  どうか、皇女殿下の“未来”だけは、お護りください」 「……お前が言うのであれば、そうなのだろうな」 「いえ。たまたま、少しだけ先に“気づいてしまった”だけです」 「……お前は変わらんな。フロストリアの息子よ」 「ありがとうございます。──陛下」 冬の気配が濃くなり始めた頃── ギルベルト・ロザリスは、学園へと戻ってきた。 一足先に雪を運んできたような冷たい風が吹き抜ける中、彼の耳に届いたのは、信じたくない噂だった。 「マリア・ルクレツィア皇女殿下が──バルド公爵家に嫁ぐことが決まった」 「……何、だと……?」 その場に立ち尽くすギルの手には、一通の手紙が握られていた。 ──それは、マリアからの最後の手紙。 『わたしの心は、あなただけのもの。 ずっと、待ってます。 いつか、あなたの元へ帰れる日を願って──』 『どうか、お身体に気をつけて。 ロザリス家の繁栄を、心から願っています』 学園に戻った後、マリアの姿はそこになかった。 ⸻ そして。 マリアの輿入れを目前に控えた、その2日前。 ギルベルトは、ついに学園を卒業した。 「──これより、ロザリス子爵位を正式に継承する」 卒業後、すぐに行われた宣言。 それは、亡き父との約束と、自らの誇りを刻む決意の証だった。 ⸻ 領が一望できるロザリスの丘。 風が雪雲をかき分け、青い空をのぞかせている。 その静寂の中で、ギルベルトは妹とともに父の墓前に立っていた。 「……父上。俺は、正式に子爵を継ぎました」 その言葉を届けたあと、彼は、隣に立つヴィヴィアンに視線を向けた。 「ヴィー……」 その声は、わずかに震えていた。 「……マリア様が……バルド公爵家に嫁ぐことになったよ……」 その瞬間、ギルは堪えきれなくなった。 ヴィーを強く抱きしめながら、何度も、何度も── 「……ごめん……ごめん、ヴィー……ごめん……っ」 声を殺して泣いた。 凛々しく、誇り高く生きてきた兄が。 二度の人生で、ヴィヴィアンがその姿を見たのは──この一度きりだった。 ⸻ そんな兄の背中に、ヴィヴィアンはそっと手を添える。 「兄様……ヴィヴィアンは、諦めません。」 その瞳には、まっすぐな決意が宿っていた。 「だから……どうか、お力をお貸しください。」 風が、彼女の髪を揺らした。 その風は、遠く、皇都へと吹いていた。 その日、雪の名残が残る川沿いの街道。 帝都へと続く表通りではなく、あえて選ばれた人通りの少ない脇道。 ──マリア・ルクレツィア・レガリアは、 バルド家との婚儀のため、静かに輿入れの道を進んでいた。 その馬車を、川辺で待っていた少女がひとり。 ロザリスの紋章を胸に纏い、凛と立つ少女── ヴィヴィアン・ロザリスだった。   ⸻ 出発の前夜。 「兄様……わたしが行きます。兄様の言葉を……マリア様に、届けます」 まっすぐに見上げる妹の瞳に、ギルベルトは静かに頷いた。 「……本当に、任せていいんだな」 「はい。兄様は──もう、マリア様に近づくことさえできないのでしょう?」 未だ消えないロザリス家の“黒い噂”。 それは政敵たちの策略によって流され、貴族社会で確実に影を落としていた。 ──だからこそ。 ギルベルトは、ひとつの決断をする。 「……これを、渡してくれないか」 懐から取り出されたのは、銀の台座に深紅のルビーがあしらわれた指輪。 かつて父が爵位を継いだ際に贈られた、ロザリス家の家宝のひとつ。 中央には「誓約」の古文字、裏面には“赤き薔薇”を象った家紋が刻まれている。 「“必ず迎えに行く”……そう伝えてくれ」 「……兄様の誓い、たしかにお預かりします」 指輪を包み取ったヴィヴィアンの手に、迷いはなかった。 ──その手に託されたのは、兄の魂のかけらだった。   ⸻ そして今。 馬車が、川沿いの曲がり角をゆっくりと現れる。 扉越しに、薄いカーテンの影が揺れ── マリアが、気配に気づいたように顔を上げた。 「──っ!? ヴィーちゃん!!」 「マリア姉様!」 ヴィヴィアンは胸元から、小箱を丁寧に取り出す。 「これは、兄様からお預かりしたものです」 そう言って、そっと差し出されたのは、あの深紅の指輪だった。 「“必ず迎えに行く”。 ……兄様は、ずっとマリア姉様を愛しています。今も、これからも」   マリアの目に、涙が浮かぶ。 「……ありがとう、ヴィーちゃん。 どうか、彼に伝えて。 わたしは──その言葉を、ずっと信じて待っていると──」 馬車が、ゆっくりと動き出す。 ヴィヴィアンは深く一礼し、背を向けずに最後までその姿を見送った。 その手には、もうひとつの約束が握られていた。 (ロザリス家の未来を、必ず取り戻す──) 冬の風が吹いた。 その中に、遠い春の香りが、ほんのすこしだけ混ざっていた。 ──川沿いの別れから、しばらくののち。 冬の余韻が残る午後、ロザリス邸の応接室には柔らかな陽が差していた。 大理石の床に映る光の模様を見つめながら、ヴィヴィアン・ロザリスは静かに待っていた。 やがて、扉が開く。 「……マリア様には、会えたのか」 低く問う声。 現れたギルベルトは、どこかまだ影を引きずっていた。 「はい。馬車が出る直前に、お会いできました」 そう応えたヴィヴィアンは、懐から小箱を取り出す。 ──蓋を開けると、中身はもうなかった。 「……受け取って、くださったのか」 ギルベルトがそっと目を伏せる。 「ええ。兄様の言葉も、確かに伝えました。“必ず迎えに行く”と。  ──そして、マリア姉様はこう仰いました」 「……わたしは、その言葉を信じて待ってる──と」 沈黙が落ちる。 だが次の瞬間、ヴィヴィアンは静かに椅子を立ち、兄の前に歩み寄った。 「兄様。わたくし、決めたのです」 「……決めた?」 「この家を、ロザリスを、必ず立て直します。  そして──マリア姉様を“返してもらう”ために、ヴィヴィアンは兄様と共に戦います」 その瞳は、もはや幼子のそれではなかった。 ──決意と覚悟を湛えた、芯のある光。 「帳簿を拝見しました。ロザリス家は裕福ではありません。  けれど誠実に運営され、領民の方々にも信頼されている」 「……そうだな。だが、それだけでは──」 「……わかっています。“誤解”では、誰も信じてくれない」 ヴィヴィアンは、拳をぎゅっと握った。 「わたくしは、この地を“数字”で証明します。  誰もが認めざるを得ない、圧倒的な利益で、ロザリスの潔白を証明します」 「……策はあるのか?」 「はい。ご安心ください」 少女の口元に、ふっと笑みが浮かぶ。 「ならば、わたしも──」 そう言いかけた兄に、ヴィヴィアンが首を振る。 「……兄様。お願いがあります」 「……何だ?」 ヴィヴィアンは、一歩踏み出して、真正面から兄を見上げた。 「わたくしに、全権をください」 「──なに?」 「経理、人事、開発、運営、営業、すべての決定権を。  そして、兄様はどうか、“護るべき剣”に専念してください」 「……ヴィー。それは──」 「どうか、“シルヴェストル戦”へ向かってください」 ヴィヴィアンが苦しげに俯く。 その言葉に、ギルベルトの瞳が揺れた。 「……あの戦地に? なぜ、わたしが」 「ロザリス家は今、“疑われている”のです。  横領疑惑、そしてそれに付随する言われのない噂──」 ヴィヴィアンはまっすぐ兄を見つめた。 「けれど、兄様が戦地に赴き、“その身で”国に忠義を示せば、風向きは変わります。  そしてわたくしが、この地を利益で満たし、“数字”で信頼を取り戻す」 「……まさか、妹に“行け”と命じられる日が来るとはな」 苦笑ともつかない声を漏らし、彼はふと、ヴィヴィアンの頭に手を置いた。 「……おまえ、本当に強くなったな」 「いいえ。まだです。  でも、きっと“勝たせて”みせます──兄様にも、ロザリスにも、マリア姉様にも」 その瞳に宿る決意に、もはや躊躇はなかった。 ギルベルトは、しばらく何かを考えるように視線を落とし──やがて、頷いた。 「……わかった。  この命が尽きるその日まで、ロザリスの“剣”として戦おう」 「ありがとう、兄様」 ヴィヴィアンの声は震えていた。彼女も兄を戦場になど行かせたくはないのだろう。 しかし、彼女は選択したのだ。 そして── ギルベルトは右手を掲げ、左手でそっと指輪を外す。 「……おまえが“全権”を握るなら、これは預けておくべきだな」 それは、ロザリス家の家長印ともいえる赤いルビーの指輪。 燃えるような色は、彼の戦場の決意を映しているようだった。 「──ヴィヴィアン・ロザリス。  この家のすべてを、そなたに託す。  我が妹であり、我が伴侶たる者に──誓って」 指輪を受け取ったヴィヴィアンは、胸に強く抱きしめた。 「……この家を、必ず守ってみせます」 それは、兄妹としての“再出発”の瞬間だった。 ──ある春の暖かい日。 ロザリス邸の客間には、窓からやわらかな陽光が差し込んでいた。 「ってわけで、ギルベルトの監視を始めたんだけどさ。まさかあの状況で戦地に行くなんて思わねーから、焦った焦った」 そう語るのは、クロム領の若き当主、ルーレウス・クロム。 ギルベルトの親友であり、密命を帯びた“影の守り手”でもある。 「そんなこと、僕が知るわけないだろう……」 隣で静かに紅茶を口にするのは、ギルベルト・ロザリス。 あくまで涼しい顔の彼に、ルーレウスは思わず眉をひそめた。 「仕方ねーから陛下にお願いして、ラインハルト様の部隊に捩じ込んでもらったはいいが……  ライデンの裏切りで死にかけるし……いやあ、あれはマジで死ぬかと思ったわ」 内容は緊迫そのものだったはずなのに、ルーレウスの飄々とした語り口のせいで、部屋には自然と穏やかな笑いが満ちていた。 「……っていうかさ、マリウス?」 ルーの話を黙って聞いていたヴィヴィアン・フロストリアが、ふと夫の横顔を覗き込む。 「……ルーの話、本当なの?」 「ああ。……そうだったかな?」 マリウスは否定しない。 それがすなわち“肯定”だと知って、ヴィヴィアンは小さく笑った。 「……ありがとう。兄様を助けてくれて」 その声はやわらかく、けれど心からの感謝に満ちていた。 「……どういたしまして」 少し照れたように、マリウスが微笑みを返す。 すると今度は、ルーレウスがぐいっと身体を乗り出す。 「そういえば、俺ずっと聞きたかったんだけどさ。  フロストリアの旦那ってさ、分かってて陛下に進言したの?」 「なにをだ?」 「ギルベルトが──マリア様を助け出すってこと」 マリウスは紅茶を一口含み、わずかに唇を吊り上げる。 「……そんなわけないだろう?神様じゃあるまいし」 そう言いながらも、どこか含みのある声音で続ける。 「……まぁ、でも、そうだな。  トィレンツィアが介入してくれば、可能性は格段に上がるとは思っていたかな」 「うわー……!可愛くなーい……!」 ルーレウスが肩をすくめ、冗談めかして言うと、今度は全員が笑った。   ──そのとき。 「パンが焼けたよー」 キッチンからヒナギクの声が響き、ふんわりと甘く香ばしい香りが漂ってくる。 「ヒナさんのパン!」 誰かが嬉しそうに声を上げると、その匂いがまるで“幸せの象徴”のように、部屋全体を包んでいった。 「マリア……先に食べておいで。さぁ」 ギルベルトが、そっと両手を広げる。 マリアは迷いなく、生まれたばかりの我が子をギルの腕に託すと、笑顔で立ち上がった。 「ありがとう、ギル。──愛してるわ!」   春の陽射しと、紅茶の香りと、過去の緊張を懐かしく語れる時間。 それは確かに、彼らが“戦い抜いたその先”に掴んだ、かけがえのない日常だった。