──王宮・皇太子執務室 窓の外では、秋の風が王城の庭木を優しく揺らしていた。 白銀の陽が斜めに差し込み、重厚な執務室の長机の上には、領地再編に関する地図と辞令文書が整然と並べられている。 マリウス、ギルベルト、ヴィヴィアン、クラリス、ルーレウス、マリア、そしてエドワード。 先日の式典を終えた面々が、再び顔を揃えていた。 エドワードは静かに書類を手に取り、口を開く。 ⸻ 「……まずは、新生フロストリアに関する再編の件だ。すべての手続きが完了した。ここに正式な名義をまとめておく」 重ねられた辞令の束を、一枚ずつ確認するように捲りながら、エドワードは淡々と告げる。 「旧バルド公爵領──レガリア東方全域を、フロストリア家に再編。 名を改め、『フロストリア公爵領』とする。領主はマリウス・フロストリア公爵」 「……はい」 マリウスが簡潔に応じる。 「次に、ライデン領。王家の保管地だったが、今後はフロストリア管轄とする。 領主──ヴィヴィアン・フロストリア。領名はそのまま『ライデン』」 「畏まりました」 「続いて、旧マルクス領はロザリス家に吸収。『ロザリス伯爵領』として再編。 領主はギルベルト・ロザリス伯爵」 「拝命いたします」 「そして──旧バルド本領。ここは王家直轄領とし、 新たに『ルクレツィア領』と命名。名義は姉上──マリア・ルクレツィア・レガリア。 管理はロザリス家に補佐させる」 マリアが目を伏せ、小さく頷いた。 ヴィヴィアンとギルベルトが、そっと目を合わせてうなずき返す。 「最後に。旧マルクス領内の小領を独立させ、『クロム領』とする。 領主はルーレウス・クロム。名義はロザリス家直轄とし、準伯爵級の特例領とする」 「……名義は要らんがな」 ルーレウスがぼそりと呟くと、クラリスが小声で突っ込んだ。 「ちゃんと受け取りなさい、ルー。あとで困るのはこっちなんだから」 一瞬、くすりとした笑いが広がる。 エドワードは書状を封じ、静かに告げた。 「──これにて、レガリア東方の再編は完了だ。皆、よくぞここまで……ありがとう」 ⸻ 領地の話が一段落したところで、エドワードは一枚の重厚な文書を手に取った。 「……そして、最後に一件──」 声のトーンがわずかに低くなる。 「本日付をもって、シャルル・ド・バルド公爵に対し、国家反逆罪による極刑── 処刑が完了したことを、正式に発表する」 室内に静寂が落ちた。 誰もが言葉を挟まず、ただ、エドワードの言葉を静かに受け止める。 「帝国広報局を通じて、数日以内に官報へ掲載される。 『王命による極刑執行』として──罪状は、国家転覆未遂、他国との違法取引、皇族への謀略、 並びに皇太子妃リリアン殿下を利用した背信行為……」 そこまで読み上げてから、エドワードは一度、目を伏せた。 「……俺が、もっと早く気づいていれば……。姉上も、リリアンも、あんな目には──」 「……陛下」 マリウスの声が、それを遮った。 その声音は、かすかに温かさを宿していた。 ⸻ 一時の沈黙を破ったのは、再びエドワードだった。 「……リリアンのことだが」 一同の視線が再び、彼に向く。 「今朝、王命により、あの者の身柄は王宮地下牢に正式に移された。 すでに、尋問の準備も整っている」 ヴィヴィアンの眉がわずかに動く。 「──ご自身でなさるのですか?」 「いや。……それについては、決めかねていた。 だが……マリウス。もしよければ、君に任せたい」 マリウスは何も言わずに立ち上がった。 窓の外に目を向ける。その視線はどこまでも静かで、冷たく、そして揺るぎなかった。 「構いません。私が行きます。 ──けじめは、私がつけましょう」 誰もが返す言葉を失う中、 ヴィヴィアンだけが、そっとマリウスの横顔を見つめていた。 その瞳に宿る決意と、かすかな哀しみを。 それがどれほど深いものかを──彼女だけが知っていた。 ― 重苦しい空気を変えたのはヴィヴィアンの突然の質問だった。 「ところで、ルー? 結局あなたって何者なの?」 ヴィヴィアンがふと思い出したように問いかけると、その場の空気がふわりと変わった。 「え? 忘れてなかったか……?」 少し気まずそうに頬をかいたルーレウスに、ヴィヴィアンは容赦なく返す。 「当たり前でしょう?」 クラリスが笑いながら割って入った。 「ルーレウス・トゥレインツィア。お姉さまは、“トゥレインツィア”をご存知かしら?」 「たしか、イグナティアにある……」 ヴィヴィアンが眉をひそめる。 「吸血鬼が住むって噂の土地?」 「そんなのは信じてないけど……ただ、領主が表に出てこないし、妙に謎に包まれてる印象よね。特別な産業があるわけでもなし……」 「それが、あるんですよ。お姉さま」 クラリスはふふんと得意げに言った。 「トゥレインツィアは皇家直轄領ですの。今回、バルド領も直轄領になったけど、それまでは唯一の存在でしたわ」 「ライデンも元は直轄領だがな」 マリウスが補足すると、クラリスは「そうなんですね」と軽く頷いた。 「なんだ、歴史の時間か?」 エドワードが肩をすくめると、ルーレウスが笑いながら応じる。 「まぁ、現皇帝がどれほど賢帝かって話だよなぁ」 「そうだな……」 マリウスが静かにうなずく。 「ざっくり話してくれ。一向に終わらん……」 ギルベルトのぼやきに、エドワードが語り始めた。 「まず、ライデン。あそこは俺の母上、ライデン家の出身地だった。けど、ライデン家は短命な家系でな。理由は──血族婚。古くから繰り返された近親婚のせいだ」 「……そんな……」 ヴィヴィアンが言葉を失う。 「母上がそれを変えてほしいと願い出て、父上が法を改正した。それが馴れ初めだよ。結果、ライデン家は絶えたけどな」 「今は“後継不在”ってことになってる」 エドワードは続ける。 「父上は、母上との思い出の地であるライデンを手放さずにいた。けど──」 「ある日突然、氷銀侯爵様に下賜された」 ルーレウスが茶化すように言うと、マリウスがやや困ったように口を開いた。 「下賜というより、預かっていたのだ。皇位を継がない皇家の子供たちに備えて、土地を残しておくために」 「だが父上は、マリウスに任せたかったんだよ。親友の有能な息子に。……けど、当時のマリウスは18歳だったからな。さすがに周囲が騒いだ」 「……当然の判断だろうな」 「当の本人は、そもそも興味がなかったしな」 ルーレウスが肩をすくめると、マリウスは淡々と答える。 「私は、何であろうと国のために在ればいい」 「……これだからな」 エドワードは苦笑し、クラリスが話を戻す。 「さて。トゥレインツィアは代々皇家直轄領。建国以来、変わらない。イグナティアはその存在を黙して秘匿し、情報を操作してきた。つまり、影の地。レガリアの裏面なのです」 「【秘匿の地トゥレインツィア】……」 ルーレウスの声が少しだけ低くなる。 「そこに生まれた者は、運命を与えられる。“影”として、戦士として育てられ、戦場や他国に送り込まれる」 「じゃあ、お前も……」 ギルベルトの問いに、ルーレウスは小さくうなずいた。 「ああ。俺はトゥレインツィア伯爵家の長男。だけど……あの狭い世界に閉じ込められるのがどうしても我慢できなかった。特に──あるひとりの女と出会ってからはな」 クラリスが補足するように笑う。 「その結果、彼は“黒焔の剣”を作り、同じような領民を引き入れ、勝手に伯爵家から籍を抜いたのです。……父上が頭を抱えていたのをよく覚えてますわ」 「なるほど。だからクラリスちゃんは知ってたのか」 「当然。イグナティアなんでね」 ルーレウスは軽く苦笑した。 「で。陛下も俺の選択を尊重してくださった。協力もしてくれた。その見返りが──ギルベルト、お前の監視任務だったのさ」 「なんだと……最初から知っていて……」 ギルベルトが息を呑む。 「悪かったな、黙ってて。でも俺は、お前を親友だと思ってる。それは嘘じゃない。だから、ずっと見守ってきた。マリア様のことも、お前のことも。陛下と共にな」 「……では、本当に……」 マリアが静かに口を開いた。 「彼の言葉は真実です。幾度か私を訪ねてきては、励ましてくれました。“ギルはきっと来る”と……。私は、その言葉だけを信じて待ち続けられました。ギルの“黎明の翼”の名も、活躍も彼が。」 「……兄様の努力が、マリア様に届いていた……」 ヴィヴィアンが小さく微笑んだ。 「全てはヴィヴィアンの立案だった。ロザリスの復興と、私自身の評価のため。……十歳の彼女が、それを思いついた」 「私は、マリア様を兄様と幸せにすると、あの日誓ったのです」 「ヴィーちゃん……あの日、味方だと言ってくれたこと。ずっと覚えているわ。ありがとう。大好きよ」 「……お姉さまの、お姉さま……か」 クラリスがぽつりと呟く。 「で? ルーレウスはいつ“クロム”になったんだ?」 エドワードが問いかけると、ルーがにやりと笑う。 「おや? それは俺と嫁の馴れ初めを聞きたいってことですか?」 「嫁!?」 その場が一斉にどよめいた。 「なにその反応。さっきクラリスちゃんが言ってただろ? 籍を抜いたって」 「クロムは奥方の姓ですわ」 「……」 ギルベルトが何か言いかけたが、黙った。 「まぁ、そういうこと。俺は彼女をあの地には連れて行かないと決めた。平民だからってのもあるけど、あの土地の重圧を背負わせたくなかったからな」 「だからこそ、表の地位を願ったのか」 「うわ、さすがマリウス。正解」 「……ルー、あなた、とんでもないことをしてたのね」 「すまない、ヴィヴィアン。利用したみたいになってしまって……」 「いえ。共闘関係だったとわかって嬉しい。あなたのおかげで、私は目的を果たせたわ」 「そうか……なら、よかった。俺はあんたのこと、気に入ってるからな。嫌われたら結構凹む……あ、いや!妹みたいな感じだからな!? 睨むなよ、旦那!」 「何も言ってないが……」 マリウスはただ静かに、肩をすくめたのだった。 ―数日後。王宮 地下牢・取調室にて 重く軋む扉の音が、石造りの牢獄に響き渡る。 ギィ……ッ。 暗がりの奥、鎖につながれた椅子に座るのは、リリアン・イシュガルディア皇女。 かつての華やかな金髪は無造作に垂れ、かつての気品は影もない。 「……来て、くださったのね」 かすれた声でそう呟く彼女の前に現れたのは──氷の瞳を携えた男、フロストリア公爵マリウス。 騎士のような佇まいのまま、彼は一言も発さず、静かに椅子を引いて腰掛ける。 無言のまま、リリアンを見つめる瞳はまるで“裁く者”のそれだった。 「どうして……エドワードは、来てくれないの?」 リリアンが縋るように口にした瞬間── 「──来るはずがないだろう」 冷酷な声が空気を裂いた。 「君は…陛下の地位を揺るがした…。そして彼の姉を殺そうとした。」 「……う、そよ……っ。私、そんなつもりじゃ……!」 「君がどう思おうと、事実は変わらない。 君の“ひと言”が、すべての引き金だった。」 マリウスの声音は静かなまま、どこまでも深く鋭かった。 「聞かせてもらおう。 ──“マリア様がいなくならなければ”と、あのとき口にした意図は?」 「……私……ただ、ラミアが…マリア姉様がいる限り…バルド様の正妃になれないって。 それにあの人が……怖かったの。 マリア姉様はいつも口うるさいし それに……ヴィヴィアンも……私をバカにする……」 「君が敵意だと感じていた者たちは、 皆、君の言葉によって命を脅かされた」 「……っ!」 「君の口から出た“無責任な一言”は、 どれだけ多くの人間を地獄へ突き落としたか……わかっているのか?」 マリウスは身を乗り出さずとも、圧のある声で、まっすぐリリアンを射抜いた。 「バルドとの会話を、すべて話せ。 君が、何を願い、何を託したのか── 今ここで洗いざらい、話してもらう」 「……そんな……彼は……優しかったの……」 「“優しかった”?──そうだろうな。君は駒としては優秀だ。皇太子妃なのだから。気づかなかったのか?自分の地位の価値に」 冷笑がこぼれる。 「バルドは処刑された。 国家反逆罪で、一族郎党もろとも命を絶たれた」 「……えっ……うそ……そんな……」 「現実だ。 ──そして、そのバルドに与した君もまたその対象だ」 「でも、わたしはっ……! バルド様に、“君を必ず愛される女王にしてやる”って……」 「それが──どれほど“くだらない幻想”だったか、 君の目にはまだ見えていないのか?人の上に立つ者が下のものの事を考えられない。こんな地獄があるか?」 「…………っ!!」 リリアンは首を振る。震える肩を抱きすくめながら、なお信じたかった。 ──自分は間違っていないと。 ──彼らは、意地悪だっただけだと。 だが。 マリウスは、もはやそこに情すら向けていなかった。 「君がどう思おうが、エドは国を束ねる者として──君との離縁を考えている」 「……っ……!」 「さよならだ、リリィ」 その言葉を最後に、マリウスは椅子を引いた。 立ち上がり、背を向ける。 「ま、待って……お願い、行かないで……っ!マリウス、マリウス!!」 無情に閉まる冷たい扉… ―ガシャァァーーーン 「ヴィヴィアン!ヴィヴィアン!!あの女のせいよ!あの女がッ……!」 陶器の水差しが叩きつけられ、砕ける音が牢に響いた。 髪を掻きむしり、爪を噛み、呪詛のように名を呼ぶ。 「ヴィヴィアン……ヴィヴィアン……っ!!よくも……よくも……」 狂気を孕んだ叫びだけが、取り残された。 マリウスの足音は、もう──遠い。 ―王宮・皇太子執務室 ──静かな夜だった。 煌びやかだった式典の日々が嘘のように、王宮は静まり返っていた。 皇太子執務室の帳はすでに下り、揺れる燭台の明かりが机上の書類を薄く照らしている。 エドワード・ルクレディウス・レガリアは、椅子に深く身を沈めたまま、静かに独りごちた。 「……俺は、間違っていた…か…」 誰に問いかけるでもなく、誰にも届かない問いだった。 けれど、それを誰よりも聞いていてほしい存在が──もう、手の届かない場所にいた。 リリアン。 イシュガルディアから贈られた姫。 気まぐれで、素直で、わがままで、どこか危なっかしくて…… だけど、笑うと本当に綺麗な人だった。 (──エド、好きよ) (──私、あなたの隣がいちばん安心できるの) (──ねぇ、わたしたち、いつ結婚するの?) ふとした仕草、袖をつまむ手、目を細めて笑った顔。 そんな光景が脳裏にちらつき、エドワードはそっと目を伏せた。 「……守ってやれなかった」 マリウスの言う通りだった。 リリアンを“皇太子妃”という立場に縛ったのは、自分だ。 姉の命を脅かすほどに彼女の視野が狭くなっていたことを、見抜けなかった。 「けれど、俺は──確かに彼女を、愛していた」 それだけは嘘ではない。 たとえ、それが国のための“義務”から始まったとしても── 彼女の心を知ってから、確かに自分の中に芽生えた感情があった。 だが、それでも彼は王だった。 国家と民を守るためには、時に情を断ち切らねばならない。 「……苦しいな、父上」 少し笑った。 この言葉を、父に聞かせたら──きっと、笑い飛ばされるに違いない。 (ならばお前が変えろ。王に必要なのは、“赦し”ではなく“責任”だ) そんな言葉が脳裏によみがえる。 父は常に厳しかった。 だが、誰よりも国と民を想っていた。 王として、ひとりの人間として──エドワードが最も尊敬する背中だった。 「……あなたのようには、まだなれそうにないよ」 けれど、自分は自分のやり方で進むしかない。 そう、マリウスやヴィヴィアンのように── 机上に置かれた書状に目を落とす。 そこには、マリウスに関する正式な公爵任命と、ルクレツィア領の名義変更、そして── “リリアン・イシュガルディア皇太子妃の称号の剥奪”が記されていた。 震える手で、その書状を手に取り、ペンを握る。 「こんなふうに……終わるなんてな」 けれど。 あのふたり──マリウスとヴィヴィアンは、前に進んだ。 死を越え、過去を越え、命を懸けて未来を掴んだ。 ならば──王である自分が立ち止まるわけにはいかない。 「……俺は、変わる。変わらなければならない」 誰のためでもない。 国のために。民のために。 そして、リリアンが最後に流した涙が、“無駄だった”とは言わせないために。 ──エドワードは、ゆっくりと書状に署名した。 それが「王」になるということだ。 暗がりの中で、一本の芯の通った音が響く。 ペン先が紙を滑る音──それは、未来へのはじまりの音だった。 ──王都・深夜。 任務報告を終え、誰もいない空を仰ぎながら、彼はひとり呟いた。 「……やっと、迎えに行ける」 それは、ずっと胸の奥に抱えていた願いだった。 イグナティアの小さな街で──あのパン屋で出会った、温かな笑顔。 出稼ぎに行くたび、息子は泣きながら「パパまたね!」と手を振り、 ヒナギクはいつも、気づかぬふりをして背を向けたまま、パンをこね続けていた。 (ごめんな。……お前たちを守るには、俺が影であり続けるしかなかった) 正体も、血筋も、戦いも。 何ひとつ伝えずに過ごした歳月。 それでも、あの小さな店は、いつも灯りがついていた。 ヒナギクの焼くパンの香りと、息子の寝息が── いつだって、俺の帰る場所だった。 「今度こそ……全部終わらせて、ただの男に戻る。 ……お前の隣で、パンを焼く日が来ても、いいよな?」 月明かりの下、ルーレウスの瞳は微かに揺れていた。 夜の静寂が、二人を優しく包む。 ――ロザリス本邸の奥、ギルベルトの私室。 淡く灯るランプの光が、どこか懐かしい影を落としていた。 「……やっと来られたわ」 マリアはそう言って微笑んだ。 金の髪をほどきながら、静かに呟く。 「あなたと……ヴィーちゃんが、私の帰る場所を、望んでくれたから」 その言葉に、ギルベルトの肩がわずかに震えた。 「マリア……」 彼は立ち尽くしたまま、視線を逸らすように顔を伏せる。 「……君が、ようやく解放されたことが、どれだけ……どれだけ嬉しかったか……」 こみ上げる想いを堪えるように、言葉は途中で震えた。 けれど、その先を言おうとした瞬間── マリアがそっと手を伸ばし、彼の唇に指をあてた。 「ギル……もう、いいのよ」 その優しい仕草に、ギルベルトは堰を切ったように感情を溢れさせた。 「……っ、マリア……マリア……!」 彼女を、強く抱きしめる。 「ずっと……ずっと寂しかった……君がいないと、息もできないんだ……」 「でも……僕は君も、ヴィヴィアンも守りたかった……だから……」 その声は、まるで幼い子どものように弱々しく、必死だった。 「……分かってるわ、ギル。あなたの優しさも、意地も、すべて──」 マリアの手が、彼の背をゆっくり撫でる。 「私は、貴方がくれるものなら……どんな運命でも、受け入れられるの」 ギルベルトの肩が震え、彼女の胸元で顔を伏せた。 窓から秋風が金木犀の香を運び、満月が薄く庭を照らしている。 月あかりを2人並んで見ながら ギルベルトはマリアに 「マリア…陛下は…父上のことは?」 「私は……すべてを置いてきました。あの屋敷も、あの名も……」 「この言い方は少しずるかったね…あのねマリア。」 ギルベルトはそっと、彼女の手を取った。 震えるその指先を、両手で包みこむようにして。 「君が僕のために“変わらないでいてくれた”こと」 「……うん」 「僕は、それを……誇りに思ってる」 マリアの瞳に、光が灯る。 「君が守ってきたものを──」 「…………」 「僕に、くれないか?」 次の瞬間。 マリアの目から、大粒の涙が零れた。 けれどその涙は、哀しみではない。 やっと報われた想いが、音もなく頬を伝っただけだった。 「…ずっと、毎日夢を見ていたわ。あなたの元に戻れる夢を…」 「……遅くなってごめん」 「ギルベルト…大好きよ。愛してるの…だから」 ギルベルトは、もう一度その手を握る。 マリアはそっと指を絡め、囁いた。 「…私の全てをあなたに…」 「大切にする。君が守り抜いた全てを…」 ——そして、やさしい夜が、ふたりを包み込んでいく。 ──夜明け前。 まだほんのりと蒼さを残す空の下で、 マリアは静かに目を覚ました。 窓の向こうには、澄んだ黎明の風。 隣には、まだ眠るギルベルトの横顔。 長い睫毛が微かに震えて、呼吸のたびに胸が上下している。 「……夢、じゃないのよね?」 ぽつりと、確かめるように呟く。 マリアの指には、昨夜贈られた指輪が、 朝の光を受けて柔らかに煌めいていた。 その光に、ギルベルトが目を開ける。 「……おはよう、マリア」 「……ギルベルト」 微睡の中で囁くその声が、優しくて、あたたかくて── マリアの瞳に、ふっと涙が浮かぶ。 「こうしてあなたの隣で目覚める朝を夢みたわ……」 「もう、夢じゃない」 ギルベルトは、ゆっくりとマリアの手をとり、 彼女の額に口づけた。 「これからは毎朝、君の隣で目覚めたい。 そう願う僕を、君は──許してくれるか?」 「……ええ。何度でも、誓うわ。 これからは──ずっと一緒よ」 二人は、指を絡めたまま。 静かに、夜明けのぬくもりに包まれていた。 ──ようやく辿り着いた、永遠の朝。 それは、約束の場所で再び咲いた運命の華 ──夜、フロストリア邸。 マリウスは、自室へ戻ったヴィヴィアンの背を見つめていた。 寝台の縁に腰掛ける彼女の髪に、淡い月明かりが落ちている。 ゆっくりと、その背に手を伸ばし──そっと、抱きしめた。 「……けじめは、つけたよ。自分で」 ヴィヴィアンの肩が、わずかに揺れる。 彼女は、ずっと迷っていたのだ。 マリウスにリリアンの罪を裁かせることが、彼を傷つけるのではと。 「君は……俺に、リリアンを責めてほしくなかったんだな」 「……えぇ。マリウスには、そうしてほしくなかった。だって──」 言葉を濁しながらも、ヴィヴィアンのぬくもりだけは誠実だった。 マリウスは静かに目を伏せる。 「……だが、それでは前に進めなかった。 俺自身が、まだ囚われていたから──」 ふわりと、彼女の頬に触れ、囁く。 「……あれは恋じゃなかった。崇拝、憧れ……。 自分の手には届かないと、思い込んでいたからこそ、惹かれていたんだろう」 あれほど心をかき乱された相手が、今はもう、遠い幻のように思える。 その事実が、どこか恐ろしくさえあった。 「……自分でも、驚いた。あれほどに想った相手を前にして、何ひとつ……心が動かなかった」 ヴィヴィアンが、そっと振り向く。 「マリウス……?」 彼は、彼女の手を取り、唇を寄せた。 「……君に触れたい。確かめたいんだ。 俺の気持ちが、今どこにあるのかを──」 重ねた唇は、やさしく、それでいて深い。 まるで飢えるように、何度も何度も、確かめ合う。 ヴィヴィアンの吐息が漏れ、指がマリウスの背を掴む。 その小さな手が、彼にとっての“現実”だった。 ──愛して。 ──愛されて。 人は、ようやく“愛”というものを知る。 それを教えてくれたのは、他でもない、この腕の中の彼女だった。 「……命を賭して、俺を守ってくれた君に──」 熱を帯びた視線のまま、彼は耳元で囁いた。 「残りの人生すべてを、捧げる。何があっても、もう二度と離さない」 ヴィヴィアンの瞳が、涙を浮かべながら微笑む。 マリウスは、彼女をそっと寝台へ押し倒した。 ──小さなランプの灯が、ふたりだけの世界をふんわりと包んでいた。 マリウスの指先が、そっとヴィヴィアンの頬をなぞる。 まるで、彼女の輪郭を確かめるかのように──いや、 “生きてここにいてくれる”ことを、確かめたかったのかもしれない。 「……君を、失わずに済んだ」 絞り出すように囁いたその声は、微かに震えていた。 ヴィヴィアンが、その手に自ら頬をすり寄せる。 マリウスは堪えきれず、彼女を腕の中へと強く抱き寄せた。 「……もう一度、確かめさせてくれ」 熱を帯びた低音が、耳元をかすめる。 首筋にかかる吐息が、甘く、身体を震わせた。 唇が重なり、また重なる。 切なさと愛しさが、互いの肌に溶けていく。 マリウスの手が、彼女の背を撫でる。 その動きは、決して乱暴ではない。 ただただ、“ここにいてくれ”と願うように── 何度も、優しく、慈しむように触れていた。 「……君のすべてを、守りたい」 「私のすべてを、あなたにあげるわ」 髪を梳く指先が、肩を伝い、身体を包む。 愛する者だけに許される、聖域のような時間。 あの日憧れた“姫”ではなく、 今、命を懸けて愛してくれる──ただ一人の“妻”を。 マリウスは、心の底から、抱きしめた。 ──すべてを超えて、ようやくふたりが重なった夜。 それは、時を越えた末に咲いた、 真実の愛の華だった。