──朝の陽光が、フロストリア邸の庭に差し込む。 露に濡れた薔薇のつぼみが、ようやく開花の兆しを見せ始めていた。 「……もう、秋か」 マリウスの言葉に、傍らのヴィヴィアンが頷く。 過ぎた夜の温もりがまだ胸に残るまま、ふたりはゆっくりと歩いていた。 「今日、イシュガルディアの使者が帝都に入る。セイレーンの件だな」 「ええ。リリアン皇女宛てに──お祝いの品として。」 「“国宝級のティアラ”を、個人の贈り物として渡すのがどれほど非常識か……」 マリウスは軽く眉をひそめたが、ヴィヴィアンは静かに目を伏せた。 「……でも、これはチャンスです」 「チャンス?」 「一周目で起きた不況……あれは、イシュガルディアとの国交断絶が原因でした。 返せば、回避できます。エドワード様なら、きっと理解してくださる」 未来の情報もあるだろうが、その判断力と行動力は上に立つもののそれだと…多分本人は気づいていないのだろう。 ⸻ レガリア王宮皇太子執務室 「──返して?」 リリアンの声は、驚きと反発に満ちていた。 「だって、お母様から貰ったんですのよ!? 娘のためにと……!」 「リリィ。それは【国宝】だ。お母上が君を大切に思ってくださったのはわかっている。しかし【国から】返還が求められているのだ、わかってくれないか?」 エドワードの静かな声に、リリィは唇をかみしめた。 (また……またあの女の言いなり……) 「わかりましたわ。返せばよいのでしょう?」 ──ふてくされながらも返還を承諾するリリィ。 だが、ヴィヴィアンにはわかっていた。 これは“想定内”。エドワードに諭されれば突っぱねられない。 (案外、リリィはチョロいのだ──) ⸻ 一周目のように 外交問題は起きなかった。 だが、それによって浮き彫りになった事実をギルベルトは掴んでいた。 ―酒場の片隅。 角の席に腰を下ろしたふたりは、陽気な旅人にも、疲れた傭兵にも見える出で立ちだった。 「……しかし。案外、景気は良さそうだな」 「な。ほら見ろよギル。オレのセンスは完璧なんだって。こういうのは“いかにも軍人崩れ”に見えた方が情報も集まりやすいのさ」 得意げに胸を張るルーに、ギルベルトはグラスを揺らして目を細めた。 「アスラン交易か……ここにきて、随分と羽振りがいいようだ」 「子どもが減ったって話も聞くぜ。……“買われた”か、“売られた”か、だな」 耳を澄ませば、周囲の酔客たちの噂話がひそひそと飛び交っている。 「最近、武器の質が良くなったらしいぜ。あっちの傭兵どもが羨んでた」 「帝都から仕入れてるらしいな。なんでも、新しいルートがあるんだとよ」 ギルベルトが静かに眉を動かす。 やはり、噂は噂ではない。 確実に、何かが動いている──。 「……そういえば、ルイス伯爵様、最近お見かけしませんな」 隣の席の男が、ふと漏らした言葉に、ギルとルーの意識が集中した。 「ん? ああ……あのアスランとの交渉役だったっけ? 杖をついた、上品なヒゲの……」 「なぁ、それってこう──ヒゲがきれいに整ってて、中肉中背、いつも優雅に歩いてるオジサマか? ちょっと気になっててさ」 「ん〜〜そうそう、それそれ。声も低くて落ち着いてて……って、なんでそんな詳しく?」 「いやぁ、昔ちょっと世話になった人かもなって思っただけ。……違うみてぇだわ、ははっ」 ルーがグラスを傾けながら、あくまで他愛のない調子で会話を切り上げる。 ──けれど、そのやり取りの中で、 ギルベルトとルーは“確信”を得ていた。 ライデンには、今【伯爵】はいない。 にもかかわらず、【ルイス伯爵】なる人物が、正式な外交の場に立っていた──。 「……“権利書の原本”を持ってるのは、そっち側か」 ギルベルトの声は低く、冷たい。 グラスの中の琥珀が、カラン、と揺れた。 翌日── 貧民街。午後。小雨上がりのぬかるんだ道。 ギルベルトとルーは、子どもたちがよく集まる広場のような場所で情報を探っていた。 配っていたパンと引き換えに、ぽつぽつと話をしてくれる子どもたち。 ⸻ 小柄な男の子: 「ルイス? あー、あのおっちゃんだろ? ふとっちょで、足悪くて杖ついてるヤツ。たまに来るよ」 「来るとさー、パン買ってくれるけど、自分で食べちゃうんだよなー。けち!」 「ありがとな、坊主。ヒゲとか特徴あるか?」 「んー、ヒゲはなかったと思う。帽子かぶってて、暑そうだった!」 ⸻ ちょっとませた女の子: 「ルイス様? わたし、あの人きらい」 「変なとこ触ってくるんだもん。肩とか、背中とか……きもちわるい」 ギルが眉をひそめると、ミナは唇を尖らせて続けた。 「顔は……目の下に傷があった気がする。あとね、髪の毛がクルクルで、変だった」 ルーが小さくメモを取る。 ⸻ 兄貴風を吹かせるタイプの… 「ルイス? 知らねぇなぁ……あ。でもな、たまに“えらそーなじじい”が来るぞ。白いヒゲの綺麗なオッサンで、杖ついてる」 「えらそうってか、ガチで偉い人っぽかったけどな。目とかギラッてしてて、あんま近寄りたくねー感じ」 (ギルとルーが目を合わせる) ⸻ おっとりした子 「ルイス様〜? あ〜あのスラッとしてて、いい匂いする人かなぁ? ぼく、お菓子もらったもん!」 「“坊やは賢そうだねぇ”って言ってくれたよ〜。また来ないかな〜」 「よぉ、坊主。その人、どんな服着てたかわかるか?」 「んーと、白いお洋服! それと、指輪がキラキラしてた」 ⸻ 「……“ルイス”が複数いる。いや、正確には――替え玉か」 「どれも共通してるのは、“杖”と“上から目線”ってとこっすかね……」 「次は、“目の下の傷”の奴を追う。あの証言が一番危ない」 「了解、ギル。女に手ぇ出すヤツは、俺が許しません」 ― ──ライデン夜、黒焔の剣アジト地下。 かび臭く湿った地下室に、低く怒号が響く。 「もう一度聞く。あんたは誰から命令を受けた?」 鋭い声を放つのは、黒焔の剣のマスター──ルーレウス。 足元に縛り付けられているのは、「ルイス」と名乗っていた男。 目の下に古傷が走り、脂ぎった肌に冷や汗が滲んでいた。 「し、知らない! 本当に何も──」 「嘘だな」 ルーが指を鳴らす。 後ろで待機していたトゥレインツィアの兵が一歩進み出ると、男の肩を無言で掴んだ。 バキィンッ! 乾いた音が鳴り、ルイスの悲鳴が地下に響く。 「……次はもう少し強くいこうか。お前みたいな“替え玉”なんざ、掃いて捨てるほどいるんだろ?」 「っく……俺は、本当に……っ」 「ギル。ちょっと目ぇ逸らしててもいいぜ?」 「……必要ならな」 淡々としたギルベルトの声が返る。 「……っ、わかった、わかったよ……!」 崩れるように呻いたルイスが、ようやく口を開いた。 「“偉い方”から命令を受けた。俺たちは……ただの使い走りだ。次のアスランの商人たちを迎える準備と、“荷”のリストを渡すように……それと……」 ルーの声が低くなる。 「それと?」 ルイスの唇が震えた。 「……最近、“ある人”への襲撃の指示が出た。理由は“ライデンを潰そうとしている”からだって……」 「誰だ、その“ある人”ってのは」 「……フロストリア侯爵夫人。ヴィヴィアン・フロストリアだ……!」 ガタン──! イスを蹴って立ち上がったのは、ギルだった。 「ヴィヴィアン、だと……!?」 冷たい声に、部屋の空気が凍る。 「……ルー、これ以上の拷問は不要だ。聞くべきことは聞いた」 「了解。あとは兵に引き渡して保管。必要なら始末もする」 「いや、証人として残す。奴が“命令”を受けて動いた証拠になる」 「……そうだな。ギル、どうする?」 ギルはすでにコートを羽織っていた。 「マリウスの元へ行く。──遅れを取るな。妹が狙われてる」 ルーが片眉を上げた。 「やっぱり“本命”は、彼女だったか」 「フロストリアの未来を潰すには、彼女を消せばいい。……バルドの思考だ」 「……急ごうぜ。もう、動いてるかもしれねぇ」 ルーもすぐに動く。 地下室には、冷えきった空気だけが残された。 ――ライデン領・ロザリス屋敷。 日の傾きかけた応接室。 マリウスは報告書の束をめくりながら、ふと手を止めた。 「……遅いな。ヴィヴィアンの馬車、もう着いていてもいい頃だが」 静かな呟きが、室内に落ちる。 そのとき―― 「旦那様ッ!!」 扉が勢いよく開き、ルーレウスが駆け込んでくる。 すぐ後ろから、ギルベルトも続いた。 「……何事だ?」 「今すぐ──ヴィヴィアン様の護衛を増やしてくれ!!」 ルーの顔は蒼白。いつもの飄々とした態度など、微塵もない。 ギルは険しい目で、一枚の紙を差し出した。 「ライデンで捕らえた“ルイス”という男の証言だ。──“フロストリア侯爵夫人への襲撃命令が出ている”」 マリウスの視線が鋭くなる。 「襲撃、だと……?」 「間違いない。“ライデンを潰そうとしているから殺せ”という命令が下ってる」 「っ──!」 バンッ!! マリウスは机を叩いて立ち上がる。 「彼女はまだ帝都か? マダム・スカーレットのアトリエに向かったと聞いている」 一瞬だけ揺れた瞳は、すぐに凍りついたような冷酷な光を宿す。 「屋敷の馬を用意しろ。最速で向かう」 「俺たちも向かう」 「いや、お前たちはここに残れ。──裏を取れ。元を断たねば、また同じことが起きる」 「……了解」 マリウスは黒いマントを翻し、扉へと向かう。 「……奴らが、俺の妻に指一本でも触れていたら──」 その声は低く、しかし烈火の如き怒気を孕んでいた。 バタン。 扉が閉まり、その音が屋敷に響く。 ──氷銀侯爵が、動いた瞬間だった。 【暗殺未遂事件】──マダム・スカーレットのアトリエへの道すがら ──夕刻、帝都から少し離れた街道。 雨上がりの空に、夕陽が滲む。 馬車の中、ヴィヴィアンは手帳をめくりながら、舞踏会用のドレスについてのメモを見直していた。 「……スカーレットさん、また変なの作ってそうだわね……」 ふと、外が静かすぎることに気づく。 「……?」 車輪の音。蹄の音。 それ以外が、ない。──鳥のさえずりも、虫の音も。 直後。 「奥様、伏せてッ!!」 御者の叫びと同時に、馬が狂ったようにいななき、道の脇から矢が放たれた。 ──ビシッ!! 矢は馬車の窓枠に突き刺さり、紙一重でヴィヴィアンの顔をかすめた。 「……ッ!」 馬車が急停止する。扉が開いた瞬間、黒装束の男が数人、周囲を取り囲んでいた。 「フロストリア侯爵夫人──ここで死んでいただく」 「……上等じゃない」 ヴィヴィアンの目が、蒼銀に輝く。 「……アイオン!」 その名を叫んだ瞬間、空が裂けた── 「ギャァアアアアッ!!」 猛禽の影が、刺客のひとりに襲いかかる。 天空から舞い降りた白銀の鷹、アイオンが、爪で男の顔を裂き、翼で威嚇するように羽ばたいた。 「くっ、あの鳥……!」 刺客たちが怯む。が──その隙を狙って、もうひとりが背後からヴィヴィアンに迫る。 「死ねッ!」 「──そこまでだ」 鋭い金属音。 その刃がヴィヴィアンに届く前に、何かが横から飛び込む。 「マリウス様……ッ!」 マントを翻し、馬を飛ばして駆けつけたマリウスが、ヴィヴィアンの前に立つ。 彼女の目を手で覆い── 「見なくていい」 そして。 ──ズバッ。 振るわれた剣閃は、音もなく刺客を断ち切った。 「っ……」 ヴィヴィアンの肩が震える。 彼の手から伝わる熱だけが、現実を繋ぎとめていた。 後ろからもう一人の刺客が迫る。 「──あぁん?」 アイオンが絶叫のような声を上げ、飛びかかる。 鋭い爪が敵の頸動脈を裂き、男はその場に崩れ落ちた。 ──静寂。 だが。 「っ……マリウス様、腕……!」 「……かすっただけだ」 彼の右腕から、細く血が流れていた。短剣が掠ったのだ。 「かすったって……!」 ヴィヴィアンはドレスの袖口から、薄いレースのハンカチを取り出す。 「こんなもので……でも、今はこれしか……!」 震える指で、彼の腕にそれを巻きつけ、ぎゅっと結ぶ。 レースが少し赤く染まる。 「君が無事でよかった」 そう言って優しくヴィヴィアンを抱きしめた。 ──彼女の命を奪おうとした者たちに対する怒り。 ──彼女を守れた安堵。 ──そして、彼女がそばにいてくれる幸運。 (俺の隣に、君がいる。もう、それだけでいい) 「さぁ、帰ろう」 静かに、彼はそう告げた。 ――フロストリア邸、夜。 馬車の扉が開き、月光が差し込む中、 マリウスはヴィヴィアンをそのまま抱きかかえ、屋敷へと足を踏み入れた。 玄関に控えていた使用人たちが一斉に顔を上げたが、 誰一人として声をかけられなかった。 ──氷銀侯爵の顔が、あまりにも静かで、 あまりにも怒りに満ちていたからだ。 「……部屋を、頼む」 たった一言だけを残し、マリウスはヴィヴィアンを抱いたまま、まっすぐ寝室へと歩いていった 使用人たちが見たもの。 いつも、整えられているその銀髪が乱れている。そして、夫婦揃って血に染まる服。ただ事ではないことをその場にいた全員が察した。 扉が静かに閉まる。 ふたりきりの寝室。灯りは落とされ、月だけが静かに照らしていた。 マリウスはヴィヴィアンをソファまで運び、そっと座らせた。 「……どこか痛むところは?」 「大丈夫。私は、怪我ひとつないわ」 ヴィヴィアンはいつものように微笑もうとした── けれど、マリウスの表情があまりにも真剣で、かすかに震えているのに気づく。 「マリウス様……?」 「……すまなかった。予想できた事だったのに…。」 低く、掠れる声が落ちる。 「お前は……強いけれど……」 マリウスは、言葉を失ったように黙り込んだ。 そして── ぎゅう、とヴィヴィアンを抱きしめる。 「ッ……」 その腕は、驚くほど強くて、震えていて、 心の奥底からの“恐れ”と“安堵”が混ざり合っていた。 「……守ると決めたのに……もし、お前に何かあったら……私は──」 「……私は、ここにいるわ」 ヴィヴィアンはそっと、彼の頬に手を添える。 「見て、マリウス様。私はちゃんと、帰ってきた。」 「……」 「マリウス様が来てくれたから。間に合ってくれたから。だから─」 涙が零れる。 それは、恐怖の涙ではなかった。 「私は、あなたが来てくれて……うれしかった」 「ヴィー……」 マリウスはそっと額を寄せ、彼女の涙を指で拭う。 そして、震える声で、ぽつりと零す。 「……ありがとう。私の元へ帰ってきてくれて」 その言葉に、ヴィヴィアンは静かに頷いた。 「大丈夫…私たちはまだ死ぬ時ではないから…」 そう言って、彼女はマリウスの首元にそっと額を預ける。 その言葉にマリウスはピクリと眉を上げた…。 ──しばらくして。 ノックの音が響いた。 「……旦那様。ギルベルト様とルーレウス様が、報告の件でお見えです」 マリウスは小さく息をつき、立ち上がる。 「……行ってくる。すぐに終わらせる」 「…ケガの手当てを…お着替えも…」 「たいしたことはない…だが、手伝ってもらえるだろうか?」 「もちろんです。ハンナを呼びますね」 「……君がいなくなるなんて、二度と、考えたくない」 ぽつりと落ちたその本音をヴィヴィアンは聞き逃さなかった。 「私もおなじです」 静かな夜に、ふたりの想いが交差する。 ──その夜、フロストリア本邸・応接室。 マリウスが姿を現した時、ギルベルトとルーレウスはすでに席に着いていた。 ふたりの視線が、マリウスの腕に巻かれた白い包帯に向かう。 「……すまなかった。待たせた」 マリウスはいつものように静かに告げたが、その顔にはわずかに疲労と怒りの残滓が滲んでいた。 「おいおい、傷はどうした。血まみれで駆け込んだ時はびっくりしたぜ?」 「大したことはない。かすり傷だ」 「……そうか。だが、お前が“駆け出した”のは、俺にとっては充分な非常事態だったがな」 ギルベルトの言葉は静かだったが、底に潜む感情は、間違いなくマリウスと同じだった。 「……状況を聞こう。ヴィヴィアンが狙われた理由。そして、奴らの正体を」 ルーレウスが立ち上がり、テーブルの上に広げられた地図と数枚の証拠書類を示す。 「──この“ルイス”と名乗る男。バルドが用意した替え玉の一人だ。尋問の結果、以下の情報が得られた」 ⸻ アスランとの交易品に、密輸された兵装の混入 状況として輸送ルートの一部が“ライデン領”を経由(本来無関係) 子供の失踪事例と照合した結果、奴隷売買ルートの疑い ルイス」と名乗る人物が複数存在=替え玉 子どもたちの証言をリスト化 そして、「フロストリア夫人」への襲撃命令が確認された ルイスの1人の証言 ⸻ 「──我らが“お姫様”に手を出そうってんだから、黙ってられなくてな」 軽口を叩くルーだが、声の奥には明確な怒りがあった。 「……つまり、これはバルドの関与を示す動かぬ証拠、というわけだな」 「あぁ。だが、やつの名は最後まで出てこなかった。だが、この“ルイス”はひとまず生け捕りにしてある。証人として、な」 「……感謝する。ギルベルト、ルーレウス。君たちがいたから、彼女は無事だった」 マリウスが静かに頭を下げる。 「礼はいい。妹を守るのは兄の務めだ。……だがな、マリウス」 ギルベルトがふいに立ち上がり、マリウスの目の前まで歩み寄る。 「次からは、血まみれで走ってくる前に、着替えて来い」 「……っ」 マリウスの頬がわずかに引き攣る。 「おかげで、屋敷中が“旦那様が奥様を抱えて血まみれで帰ってきた”って大騒ぎだ。 ハンナ殿は泣くし、モリア殿は立ち尽くしていたぞ?」 「…………すまない」 「ふふ、ま、それだけ本気ってことだろ? ねぇ、侯爵様」 ルーがニヤリと笑うと、マリウスはちらりと視線をやり、ため息を吐く。 「……あまりからかうな。今回は、命がかかっていた」 「わかってるよ」 ルーは真剣な目でマリウスを見返した。 「次はないよう、バルドの尻尾、必ず掴んでみせる」 「俺たちで、この国の膿を洗い出す」 ギルベルトが言うと、マリウスは静かに頷く。 「……頼りにしている。その先にあるのはマリア様の救出と、国の未来だ」 ⸻ ──こうして、暗躍の証が揃い始める。 バルドの悪行は、確かに“闇”の中にあった。 けれど、それに光を当てる者たちが、ここにいる。 帝都の夜は静かに更けていく。 だが、フロストリア邸には──確かな“戦う意志”があった。 ―フロストリア邸廊下 報告を終えた後、 マリウスはしばしの静けさを求めて廊下を歩いていた。 静まり返った屋敷の空気。 けれど、その先に──彼女がいると、わかっていた。 応接室を出たマリウスを、 廊下の途中でパタパタと走り寄るのは出迎えに来たヴィヴィアンだった。 「おつかれさまです。マリウス様」 ふわりとした声に、彼は肩の力を抜く。 「…ヴィー出迎えてくれたんだな」 彼女の視線は、まだ白い包帯に留まっていた。 「傷、痛みますか?」 「……大丈夫だ。……」 そう言って、彼は一歩近づき、 そっと彼女の指先に自分の手を重ねた。 「君が傷つかなければそれでいい」 その言葉に、ヴィヴィアンの目がわずかに揺れる。 「……私も同じように思っていることをわすれないでくださいませ……」 言葉の続きを紡ぐ前に、 マリウスは彼女を優しく、けれど強く抱きしめた。 「……怖かったか?」 「──ええ。それは怖くないとは言えません。ですが…あなたもアイオンも守ってくれた。」 小さな吐息とともに、 ヴィヴィアンはそっと彼の胸に額を預ける。 彼の心臓の音が、ゆっくりと響いていた。 ⸻ 「……マリウス様」 「ん?」 「包帯がゆるんでいます。直しますね。」 「…そうだな…風呂に入ろうと思うのだ。だからその後で頼めるか?」 「……それ。利き腕ですわよね?お手伝い…しましょうか?」 その申し出に、マリウスは一瞬だけ目を見開いた。 けれどすぐに、ふっと口元を緩める。 「──なんだ、一緒に入ってくれるのか?」 「っ!?」 ヴィヴィアンの頬が、ぱっと染まる。 「ち、ちがっ……!そういう意味では……っ!」 「冗談だ。……少し、気が緩んだだけだ」 そう言いながら、マリウスは彼女の髪にそっと触れた。 「君の顔を見たら、緊張が解けた。……許してくれるか?」 「……もう……本当に、あなたは……」 恥ずかしそうに眉を寄せながらも、ヴィヴィアンはそっと微笑んだ。 「許してさしあげますわ。今夜だけ、特別に」 そう告げる声には、安心と優しさと── ほんの少しの照れが滲んでいた。 ─── 湯気の立ちこめる風呂場。 中にはマリウスの姿。腰にタオルを巻いて、肩にまで湯気がのぼっている。 扉の向こうから、静かに声がした。 「マリウス様、失礼いたしますね。背中、お流ししますわ」 「……ほんとに来たのか……」 ぽつりと呟くマリウス。 ふざけて言ったつもりが、本当に来てくれた。 その事実が、じわじわと胸に沁みてくる。 ローブ姿のまま入ってきたヴィヴィアンは、視線を泳がせながらもタオルを手に取った。 動揺を隠そうとしているのが、彼にはよくわかる。 「……ほら、背中を向けて。頭も……お洗いしましょうか」 「ん。……頼む」 静かに差し出された彼の背中。 軍人ではないが、それなりに鍛えられた筋肉が湯気に浮かび上がる。 指先に伝わる、命の温度。 (ああ、よかった……本当に、よかった……) ヴィヴィアンは心の中でそう呟きながら、泡立てた指先で優しく髪を洗い始めた。 「……力、強すぎませんか?」 「いえ。ちょうど、いいです」 ごしごしと洗われながら、マリウスの声はどこか心地よさげだった。 (──この人は、命を懸けて私を守ってくれた) 湯気に包まれながら、ヴィヴィアンの瞳がそっと潤む。 だけど、泣かない。今は笑顔でいてあげたい。 「……あたたまったら、出てきてくださいね」 「……ああ」 「脱衣所で、お待ちしていますから」 ──扉が閉まる音がした直後、脱衣所でヴィヴィアンがひとり、悶えた。 (~~っ……!し、死ぬ……ッ!!恥ずかしさで死ぬ!!) バスローブの裾をぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にしてうずくまる。 まさか、あんなに…あんな声……!! (回帰する前より前に死ぬ!違う意味で死ぬぅぅぅ!!) ──そんな彼女の気配に気づかぬふりをして、 湯船に浸かりながら、マリウスはフッと微笑むのだった。 脱衣所── 湯上がりの空気は、ほのかに温かく、2人を包んでいた。 「…ちゃんと温まりましたか?」 そう言って微笑むヴィヴィアンの頬は、湯気のせいだけではない朱を帯びていた。 「母上みたいなこと言うな。」 そう言ってふわりと笑うマリウスは少しだけ少年のようだった。 彼女は、マリウスの髪を丁寧に拭き、タオルで包む。 その手つきに、マリウスは静かに目を閉じる。 「子どもになった気分だよ」 「うふふ。ふだんのあなたからは想像できませんもの」 ──優しい時間が、そこにあった。 ⸻ 寝室へ── マリウスが寝室までそっとエスコートする。 廊下を抜け、ふたりの寝室へと入ると、すでにランプの灯りがやわらかく灯っていた。 ベッドの上には、ふわりと重なる羽毛布団。 その片側に、マリウスが腰を下ろす。 「……」 ヴィヴィアンは、少しだけためらったあと、静かに隣へ。 ──そのとき。 マリウスの声が低く、ふいに響いた。 「…今日は来るんだな…。」 「……来たら、だめですか?」 ふわりと笑うヴィヴィアン。 けれどその目は、ほんのり揺れていた。 マリウスは、そっと彼女の手をとる。 「……いや。嬉しいよ。私を頼ってくれるのだろう?」 その声に、ヴィヴィアンの心が、あたたかく満ちていく。 彼女の悪夢は彼にしか止められないのだから… 「じゃあ、今夜は……一緒に眠らせてくださいませ」 「…おいで。わたしのヴィー。」 そっと彼女を抱きしめると、そのまま眠りについた。 ⸻ ──ベッドに並び、灯りが落ちる。 夜はまだ、深く── けれど、穏やかな時間が流れていた。 🏰王宮・謁見室(舞踏会前) 「──ライデン返還の件、進捗はいかがでしょうか?」 ヴィヴィアンの静かな問いかけに、エドワードはわずかに眉をひそめた。 「……子爵たちの反対が続いている。 『皇太子妃殿下こそがふさわしい』と、嘆願書が日々届いているよ。 中には、“フロストリアには任せられない”などと中傷めいた言葉まである」 「……朽ちた子爵家の娘を嫁にもらったから、ですか?」 ヴィヴィアンは肩をすくめた。 「そんな“理由”で土地を任せるか否かが決まるなら── この国の未来は、存外に脆いものですね」 エドワードは苦笑しつつも、小さく頷いた。 「……確かに、同感だ」 そこに、マリウスが一歩進み出て、低い声で言った。 「──ライデンは現在、深刻な混乱状態にあります。 子爵たちの名のもとに、裏では人身売買、武器の横流し、麻薬の密輸といった不正が横行している。 我が協力者が潜入し、証拠を押さえました」 「……なに?」 エドワードの表情が一変する。 「証拠のひとつには、“ヴィヴィアンの暗殺指令”までが含まれていました。 ある一団は、“奥方を排除せよ”という命令を受けて動いていたと証言しています」 「まさか……」 「名は出ていませんが、根は深い。 ライデンは今、“戦場ではなく闇市”と化しています。 ──返還の遅れは、国にとっても損失です」 ヴィヴィアンがそっと言葉を添える。 「──これはもはや、“土地の所有”の話ではありません。 国家の名のもとに、民が傷つけられている。 その事実だけは、どうかお見逃しなきよう」 静寂。 やがて、エドワードが唇を引き結び、言った。 「……よかろう。 正式な返還手続きは、王命として発令する。 フロストリア侯爵夫妻に、政務代理の全権を与えよう。 すぐに動け」 「感謝いたします、皇太子殿下」 ヴィヴィアンは頭を垂れ、マリウスも静かに一礼する。 「……マリウスは現地に向かいます。その間、フロストリアの政務は私が補佐いたします」 エドワードは頷きながら、ふたりをじっと見つめた。 「……頼んだぞ。」 ―レガリア王宮晩餐の間 豪華絢爛──その言葉が似合う夜会。 きらびやかなシャンデリア、煌めく宝石、絹のドレスと香水の香り。 その舞台は、リリアン皇女とエドワード皇太子の“お披露目舞踏会”。 他国の使節も招かれた外交形式ながら、実際はリリアンの“理想”が色濃く反映された社交界の晴れ舞台だった。 エドワードは王家の礼装を纏い、 隣を歩くリリアンは──ふんわりしたドレスに身を包んだ夢見る姫。 その中で、 視線をさらったのは、遅れて現れた一組の夫婦。 マリウス・フロストリア侯爵と──その妻、ヴィヴィアン・フロストリア。 漆黒のドレスに身を包み、マリウスにエスコートされて現れた彼女に、会場の空気が一変する。 「……あれが、ロザリスの?」 「いや、侯爵夫人だろ……でも、まさかこんな美人だとは……」 口々に交わされる噂。 「あんな美人いたっけ?」 「でも、あの家……朽ちた子爵家じゃなかった?」 「水害事件で活躍したらしいよ?」 「あれでまだ若いとか嘘でしょ、怖いくらいだわ……」 ──その「怖い美人」は、毅然とした面持ちで会場に立っていた。 会の途中、リリアンがマリウスに話しかけようと近づいたその時。 彼はすでにヴィヴィアンと談笑しており、 彼女の視線さえも気にかけていなかった。 エドワードは外交の挨拶で各国の要人に付き添っており、 リリアンは気がつけば──孤独だった。 そして、堪えきれず言葉をこぼす。 「……まさか、子爵家の令嬢が、侯爵夫人になられるなんて──時代も変わったものですわね。」 ──空気が張り詰める。 言葉を返そうとしたマリウスを、 ヴィヴィアンがそっと手で制した。 そして一歩、前に出る。 「どのような意味でしょうか? 私はロザリスの娘であることを、誇りに思っています。」 「あら。あなたたちが望んで結婚してないって噂もあるのよ?それはご実家の立て直しの一環ではなくて?」 「ふふ。いかにも──噂というのは、さぞ都合の良い耳を持っているようですね?」 ──ざわめく場内。 「たとえ噂が何を語ろうと、私はロザリスの娘。何一つ後ろ暗いことはございませんし、私の誇りでございます。」 その背に並ぶように立ったマリウスも、静かに続けた。 「噂を鵜呑みにするのは、賢明とは言えません。 それに──彼女は私の妻、ヴィヴィアン・フロストリアです。」 ──リリアンは、顔を真っ赤に染めて震える。 会場の空気が凍りついた、まさにその時── ヴィヴィアンがポツリと、眉をひそめて呟いた。 「あの……これって、不敬罪になります……?」 一瞬の沈黙ののち。 ぷはっと、エドワードが笑い声を漏らす。 「なるわけないよ! ならない、ならない!」 「むしろ、こちらがお詫びするよ。ね、リリアン?」 ──その一言で、場の緊張が弛緩する。 リリアンは俯いたまま何も言えず、退席。 会場の注目は、一気にヴィヴィアンに集まる。 その時── 「あら、久しぶりね、ヴィヴィアン嬢。お変わりなくて?」 優雅な声と共に歩み寄るのは、 フローリア侯爵夫人、アナスタシア・フローリア。 社交界の実力者にして、ヴィヴィアンの味方。 「朽ちた子爵家? まったく、くだらない噂話だこと。 ヴィヴィアン嬢がどれだけの功績を挙げてきたか、ご存じないのね? 私はちゃんと見ていたわ。あの頃から、あなたの目は強かった。」 ヴィヴィアンは深く頭を下げる。 「……ありがとうございます。侯爵夫人のような方に、そう仰っていただけて光栄です。」 微笑むアナスタシアが、ふわりと囁く。 「私はあなたが気に入っているの。またサロンへご招待するわ。」 ──それは社交界への後ろ盾の宣言であった。 場が和らぐ中、今度はもう一人の令嬢が、 ふわりとヴィヴィアンのもとに歩み寄る。 金糸の髪に、柔らかな表情をたたえた女性── エルザリーテ・エクスワイア。 「リリアン様にも、困ったものですね……。 あとで、少しだけ──苦言を呈しておきましょうか。」 その口調はふんわりと優しく、まるで咎めるような気配はない。 それでも── この一言が、後にリリアンをさらに“拗らせる”こととなるのだった。 ―夜会が終わりを告げる頃、 シャンデリアの灯りも徐々に落とされ、招かれた貴族たちは次々と王宮を後にしていった。 ヴィヴィアンはマリウスの腕に手を添え、静かに会場を後にしようとしていた。 ──その時。 「マリウス、ヴィヴィアン。少し、いいか」 振り返ると、王家の礼装を脱いだエドワードが立っていた。 いつもの柔らかな微笑みはなく、その顔には真剣な影が差している。 「……お話、ですか?」 「時間は取らせない。すぐ済む。執務室に来てくれ」 マリウスとヴィヴィアンは一瞬だけ視線を交わし、無言のままうなずいた。 ⸻ 「まず、ライデンの件だが……正式に返還が決まった」 「……本当に?」 「昨日の舞踏会の直前、子爵たちの合意が取れた。これで名実ともに、ライデンはフロストリア家へ戻る」 安堵の息をつくヴィヴィアンに、エドワードは一枚の文書を差し出す。 それは──皇帝の名によって署名された、ライデン返還の勅命書だった。 「……ありがとうございます。これでようやく、あの地の混乱を治めることができます」 「それと、もう一つ。これは陛下からの通達だ」 エドワードの口調がわずかに引き締まる。 「王宮内に“フロストリア家の執務室”を設けるよう命じられた。場所は──この執務室の隣室だ」 ヴィヴィアンの眉がわずかに動く。 「……隣、ですか?」 「王宮での公務補佐の便を考慮してのこと……そして、君の護衛の意味もある」 昨夜の出来事── 馬車を襲った影、閃いた刃。 身を挺して庇ったマリウス。 そして、空を裂いて飛来した一羽の鷹。 「王宮側でも、事件の詳細は共有されている。あれは偶然ではない。“フロストリア侯爵夫人が狙われた”という事実が、すでに動かぬ証となった」 「……」 「今後、君が王宮に来る際は、必ずマリウス、あるいはそれに準ずる信頼できる者に送り迎えをさせること。王宮側でも護衛は用意するが、万が一があってはならない」 ヴィヴィアンは黙ってうなずいた。 「そして、ライデンについて詳しく報告してほしい」 「ご報告は、すでに準備を進めております。数日中に文書をまとめて提出いたします」 「頼む。……王家としても、もう看過できる段階ではない」 ⸻ しばしの沈黙ののち、エドワードは声を落とし、最後の話題に触れた。 「これは、陛下からではなく、俺個人のお願いだ」 「……?」 「“形式だけでいい”。リリアンに、謝罪してくれないか」 静かな一言に、ヴィヴィアンの表情がわずかに強張る。 「……理由を伺っても?」 「わかっている。悪いのはリリアンの方だ。だが、舞踏会の一件で、一部の貴族が『侯爵夫人が皇太子妃を侮辱した』と騒ぎ立てていてな……体裁上、このままでは済まない」 ヴィヴィアンは沈黙したまま視線を落とし、やがて静かに息をついた。 「──了解しました。フロストリア侯爵家として、形式を重んじた応対をいたします」 エドワードは安堵の吐息を漏らし、深く頭を下げた。