──レガリア公国・王宮 「なんだって?どういうことだ、マリウスが――結婚!?」 「はい。本日、皇帝陛下への謁見の許可を求めてまいりました」 「……まさか、マリウスが? どうして……」 そこにいたのは、先日婚約を交わしたばかりの、幸せの絶頂にある皇太子エドワードと隣国の皇女リリアン。 そのふたりでさえ驚愕するような――まさかの電撃婚。 友人であるマリウスの報せに、驚かぬはずもなかった。 「アイツ……何を考えているんだ?」 「後ほど、ご挨拶に参られるとのことです」 「……わかった。下がってよい」 「失礼いたします」 ──ただ命じられた伝言を伝えただけの兵士は、予想外のふたりの反応に内心戸惑っていた。 (侯爵様ともなれば、政略結婚のひとつやふたつ……驚くようなことではなかろうに) 「リリィ、おまえはどう思う?」 「……私も、困惑しています。だって、マリウスは……」 「あいつが考えなしに結婚なんてするか? しかも、こんなにも急な話だ」 「……こちらへ来ると言っておりましたわ。直接、お話を伺いましょう」 (マリウスは、私のことを想ってくれているはず……。きっと、理由があるのよ) ── マリウス・フロストリアにとって、皇帝は“父のような存在”であった。 先代フロストリア侯爵――すなわちマリウスの父は、皇帝の学友であり親友でもあったが、隣国シルヴェストルとの戦いの折、皇帝の身代わりとなって戦死した。 ──マリウスが十二歳の時である。 それ以来、皇帝は何かと彼を気にかけ、実子であるエドワード皇太子と同じように教育を施した。 そして今日、マリウスはバルド家に次ぐ広大な領土を持つ、名門・フロストリア侯爵家の当主として君臨している。 本来であれば、公爵位への昇格すら視野に入っていた。 だが、マリウスの年齢や政局のバランスを考慮し、皇帝はその話を保留としていた。 (その一環として、“マリア皇女との婚約話”も噂されていた) だがマリウスは―― 権力を求めることはなかった。ただひたすら、国のために。そして恩ある皇帝に報いるために、尽力してきたのだ。 だからこそ、ヴィヴィアンとの結婚―― たとえそれが“契約婚”であったとしても、報告を怠るなどという選択肢はあり得なかった。 ⸻ 「なんだ……ひとりで来たのか?」 「申し訳ありません。なにぶん急な話でしたので、取り急ぎと思いまして」 「……こうして次々と、子供たちが伴侶を見つけていくというのは、少々寂しいものだな」 「伴侶を見つけたからといって、陛下への忠誠が揺らぐことはございませんよ」 「おまえはそうであろうなぁ。……愚息は、若干恋に溺れている節がある。もう少し自分を律してくれるとよいのだが」 「皇太子殿下には、賢帝となるだけの資質がございます。時が経てば、ご自身の内に収められるかと」 「……だが、現状おまえに頼っているようじゃあ、まだまだだよ。 内政も外交も、おまえが肩代わりしているのだろう? エドの執務を」 「……ご存じでしたか」 「わからんわけがなかろう。 ……で? 嫁さんはなんと? 領地運営と国政の両立など、構っている暇もなかろう、新婚なのに」 「とくに、何も。彼女は彼女で忙しくしているようですから」 「おまえも、エドの半分くらい情熱を見せてみろ。 ……で、どんな女性なんだ?」 「……どんな、ですか。 不思議な人ですよ。理性的で賢明なのに、時折、とんでもない行動に出る」 「ふむ……その“とんでもない行動”は、この急な結婚話にも関係あるのか?」 「……まぁ。そうですね。 けれど彼女は、誰よりも強い信念を持っていて、人の痛みに寄り添える人です」 「ほう。……ちゃんと、相手のことを見ているのだな。 ならば安心だ。……まあ、尻に敷かれんなよ」 「……気をつけます」 (陛下と話すときは、不思議と本音がこぼれる。 ……そうか。私は、あの人のことをそんなふうに、見ていたのか) 「次は、ふたりで来い。……楽しみにしているぞ」 「承知しました。必ず、近いうちに」 ── (……エドと、リリィか) 深いため息をひとつ。 マリウス・フロストリアは思考を切り替えるようにして、エドワードの執務室へと歩を進めた――その時だった。 「侯爵様──お待ちくださいませ」 声をかけてきたのは、皇帝陛下に長らく仕える老執事であった。背筋は真っ直ぐだが、白髪混じりの髪と落ち着いた口調には、長年の仕えぶりと人となりが滲んでいる。 「陛下よりお言葉を預かっております。本日より二週間、王宮にはお越しにならずともよい、とのことでございます」 「……なんですって?」 「ええ。陛下の仰せのまま、以下、逐一申し上げます」 「新婚旅行くらい、行ってこい。 たまにはエドに苦労させよ。それが奴のためにもなる。 嫁御を大切にしなさい。 領土の管理も、奥方にきちんと引き継ぐこと。 執事任せにせぬように」 「……とのことでございます。なお、この件は皇太子殿下にも陛下自らご説明なさるとのこと。侯爵様は、ご安心のうえご静養をお取りくだされとの仰せにございます」 (……陛下。逃げ場のない包囲網とは、さすがだ) 「伝言、確かに承った。……陛下に、感謝をお伝えください」 「かしこまりました」 老執事は一礼しかけたが、ふと顔を上げて静かに微笑んだ。 「……侯爵様。ご結婚、誠におめでとうございます」 「……ありがとう」 ── (突然の休暇とはな……。とりあえず、エドのところへ報告に行くとしよう) 静かに息を整え、マリウス・フロストリアは再び皇太子エドワードの執務室へと歩を進めた。 扉の前に立ち、控えめにノックを打つ。 ──コン、コン。 間髪入れずに扉が開かれた。 「マリウス!」 「エド……ワード陛下」 あまりに勢いのある呼びかけに、さすがのマリウスも一瞬たじろぐ。 しかし言葉を選びながら一礼し、執務室の中へと足を踏み入れた。 「入れ」 「……はい」 扉が閉じられ、静寂が落ちる。 部屋にいたのは、エドワードただ一人――リリアン皇女の姿はなかった。 「皇女殿下は……ご不在なのですね」 「リリィは外させた。 おまえと、“友”として話すためにな」 ⸻ (……その言葉に、どれほどの温度が込められているのか) マリウスはわずかに視線を伏せ、思考を切り替える。 ⸻ 「……そうか。ならば、私も“そう”させてもらおう」 「――あぁ。ぜひそうしてくれ」 「俺に一言もなく結婚した理由を、是非ともな!」 静かに、しかし確かな怒気を孕んだ声音。 対して、マリウスはあくまで冷静に答える。 「……そもそも、おまえが、なぜ怒っているのかが理解できないのだが?」 「……は?」 「私は侯爵家の人間だ。 政略結婚の一つや二つ、当然あることだろう」 「おまえ……何を言ってる?」 「……誰もが、おまえたちのように“想い合って”結婚すると思っているのか? それとも──おまえたち“だけ”が、結婚するとでも?」 エドの眉が、ぴくりと動く。 「……それにしたって、急すぎるだろう!」 「……ああ。そうだな。その点については謝罪しよう。 皇帝陛下にも、すでにお詫びを申し上げてきたところだ」 「……なぁ、マリウス」 「おまえ、“政略”じゃなく“契約”結婚だろ。……一体何を企んでるんだ?…だいたいおまえはリリィを…」 エドの瞳には、怒りと、どこか切実な“寂しさ”が混ざっていた。 その視線をまっすぐに受け止めながらも、マリウスはほんの一瞬だけ言葉を飲み込んだ。 だが―― 「……だまれ」 低く、抑えた声。けれど、その奥底に宿る感情は、確かな熱を帯びていた。 「政略だろうが契約だろうが関係ないんだ。 ……彼女は、私にとって“必要な存在”であることに、間違いはない」 エドが言葉を継ごうとした瞬間―― 「だいたい、ここでおまえが“リリィ”の名を出すのか? リリィは……おまえのものだろう?」 「これ以上、私に――どうしろって言うんだ……!」 その声には、滲んだ怒りと、抑えきれなかった痛みと、 何よりも、“諦め”に近い感情がにじんでいた。 静寂が落ちる。 エドは、まるで何かを掴みかけて、手からこぼれてしまったかのように、 力なく呟いた。 「……マリウス……おまえ……」 その言葉を遮るように、マリウスは一歩だけ距離を取った。 「……すまないが、しばらく……おまえには会いたくない」 静かな、けれど決定的な拒絶の言葉。 そして背を向け、 マリウス・フロストリアは無言のまま、エドワードの執務室を後にした。 ──フロストリア侯爵邸 マリウスが陰鬱な面持ちで邸宅へ戻ると、 玄関ではヴィヴィアンがモリアと共に、静かに出迎えていた。 「おかえりなさいませ、侯爵様」 どこまでも完璧に整えられた礼儀と、 ほんの少し他人行儀な声音――。 それにマリウスはただ軽く頷くだけで、言葉を返すことなくそのまま自室へと向かった。 そして部屋の扉を閉めたとき、ようやく自分の中の感情が、少しだけ溢れ出した気がした。 (……まったく、何をやっているんだ) 執務机の椅子に沈みこむように腰を下ろすと、 胸の奥に重く沈んでいた感情が、じわじわと拡がっていく。 ──と、そこに扉をノックする音がした。 「……マリウス様」 「……モリアか」 「はい。お茶をお持ちしました」 「……なんだ。珍しいな」 「奥方が……侯爵様のご様子がよろしくないと。 どうかお身体をお労りください、と」 「……そうか。……さすがだな。よく見ている」 「ええ。とても、心配しておられましたよ」 マリウスは目を伏せ、ふと窓の外へと視線を向けた。 木々はすっかり葉を落とし、白い息が外気に消える。 冬が、確かに近づいている。 カップに注がれたハーブティーの湯気が、ほのかに香りを立てた。 ──おそらく、ハンナの選んだ穏やかなブレンドだろう。 マリウスの指先から、ほんの少しだけ、冷えがほどけていく。 ヴィヴィアンの気遣いが、直接ではないにせよ、自分に届いていることがわかる―― それだけで、ほんのわずかに、張り詰めた心が和らいだ気がした。 ── 「モリア」 「陛下から、二週間の休暇をいただいたのだが……領地で急ぎの用件はあるか?」 執務机に残された書類に目を通しながら、マリウスが問うと、 そばに控えていたモリアが、穏やかに微笑を浮かべて答えた。 「これはまた……陛下も、粋な計らいをなさいますね」 「領地のほうは、特にお急ぎいただくことはございません。 ただ──奥方が、何やら忙しく動いておられるようでして」 「……それは、私が手伝っても差し支えないものなのか?」 思わぬ言葉に、モリアはわずかに目を瞬かせた。 (……これは、珍しい) 「それは……奥方にお尋ねいただくのがよろしいかと」 「……ですが、休めと仰る気もいたしますね」 「……そうだな。 ──だが、せっかく頂いた休暇だ。 お互いにとって、有意義な時間にしたいとは思っている」 モリアの視線が、ふとやわらぐ。 「何にせよ……“契約”とはいえ、ご夫婦として歩まれるのです。 奥方との距離も、少しずつ埋めていかれては」 マリウスはしばらく黙っていたが、窓の外に目を向けながら、静かに口を開いた。 「……そうだな。 いつまでも、“他人”のままでいるわけにもいかない」 カップの中のハーブティーから、ほんのりと香るやわらかな香りが 張り詰めた彼の胸に、ほんのわずかの余白を作っていく。 ― 翌朝。 朝の陽ざしが柔らかく差し込む、フロストリア邸の食堂。 長い食卓の端と端に、それぞれが座る―― マリウスが口を開いたのは、ふわりと立ちのぼる紅茶の香りの向こう。 「──陛下から、二週間の休暇をいただいた」 唐突な報告に、向かいに座っていたヴィヴィアンが、少しだけ目を見開く。 けれどその驚きを表には出さず、静かに微笑んで応じた。 「それは……よいご判断かと存じます。どうか、ゆっくりお休みくださいませ」 「……そうか」 小さく呟いて、マリウスは目を伏せる。 その一言に、ほんの僅かにだけ肩が落ちたように見えたのは気のせいだったか。 (やはり、そう言うと思っていたよ。君は……) その後は特に言葉を交わすこともなく、食卓には静けさが戻っていった。 ──が、その沈黙を埋めるように、昼になって騒がしくなる厨房。 アナスタシア侯爵夫人のバザーが5日後に迫っていた。 「リリードロップの酸味がちょっと強い? でも、こっちのジャムならちょうどいいかも!」 「お砂糖もう少し減らしてみます?」 「うん、シュガーバターはもう少し焦がした方が風味出るかな……!」 厨房では、エプロン姿のヴィヴィアンが腕まくりして、ハンナと侍女たちと一緒にクレープの試作中。 リリードロップ(いちご)をふんだんに使った、彩り鮮やかなスイーツがテーブルに並ぶ。 屋敷中に漂う甘酸っぱい香りに誘われて、突然の休暇を持て余したマリウスがそこに居た。 厨房を覗けば エプロンの紐を結び直しながら、年相応に笑っているヴィヴィアン。 (あのような一面もあるのだな…) そのとき、彼女がふと呟いた。 「……何か、物足りないのよねぇ。甘いだけじゃ……足りない感じがするの」 「それなら、甘くないものを加えたらどうだ?」 背後から突然聞こえた低い声に、ヴィヴィアンはびくりと肩を揺らした。 「侯爵様⁈何故このようなところへ…」 「ん?手伝おうと思ってな。」 「まさか。侯爵様にそのような…。」 「いや、興味があるのだ。そなたのする事に。それに、ある意味君の為の休暇みたいなものだからな…」 「え?」 「一応、なんであれ【新婚】なんだからそうなるであろう。」 「いや。ですが、だからといって夫婦らしくする必要は…」 そう言いながらも、ヴィヴィアンの頬はうっすらと赤く染まる。 「まぁよい。仮にも共に生活をするのだ、ある程度の関係は作った方が互いの為ではないか?」 「…そう…ですね。」 (ウソでしょ…あの侯爵様が歩み寄ってくださってる…) 「と。ところで、甘くない……とは、例えば?」 「ハムやチーズなどはどうだ。塩味があるものを包めば、バランスが取れる」 「…なるほど。食事みたいなものですか。」 その軽いやりとりに、周囲の侍女たちは忍び笑いを浮かべていた。 ハンナは穏やかに笑いながら、侯爵に声をかける。 「侯爵様も、よろしければご一緒にいかがですか? せっかくのご休暇ですし」 「……では、ひと口だけ。そうだな味見役として参加させて貰おう」 そう言って、マリウスはテーブルにつき、ひとつのクレープを手に取った。 「“リリードロップジャムと生クリーム”か。……悪くない。 そうだな。飲み物がある方がよいだろう。」 「……甘みのない飲み物の方が良さそうですね」 ──夫婦というよりは、上司と部下のようなやり取りではあるが、出会いからこれまでと比べれば… 厨房に漂う甘い香りと、温かな空気のなかで、それは確かに芽吹いていた。 「……ところで、これは一体、何のための試食なのだ?」 クレープをひと口食べたマリウスが、ふと問いかける。 厨房に漂う甘い香りのなかで、その問いは意外なほど素朴に響いた。 ヴィヴィアンが手を止めて、瞬きをする。 「……申し訳ございません。その、結婚前からの約束でして」 「約束とは?」 マリウスは静かに返す。侍女たちがそっと視線を逸らすのが、どこか可笑しかった。 「これは、五日後に開催されるバザーに出す予定の品なのです。アナスタシア侯爵夫人が主催される、平民のための慈善イベントでして──わたくし、そのお手伝いをさせていただくことになっております」 「……そうか」 マリウスは、ふむ、とわずかに頷く。 「どうしてそのようなことを?」 「理由は、いくつかございます」 ヴィヴィアンは少しだけ視線を伏せ、けれど確かな声で続けた。 「わたくし、ロザリス領で平民の暮らしを見てきました。彼らの生活がどれほど厳しく、けれど誇り高く日々を生きているか──少しばかりですが、知っているつもりです」 「……」 「それに、社交の場で信頼を得ておきたい方もおりますし……わたくしにとっては、意味のあることなのです」 その横顔を、マリウスは静かに見つめていた。 ──どこか、自分の手の届かない場所に立つ彼女の姿があった。 それは、契約前の「侯爵夫人候補」ではなく、 今、目の前でエプロン姿で語る**“ヴィヴィアン”という一人の女性**だった。 「ならば、私も手伝おう」 「……え?」 「私は、君の夫だからな」 当然のように告げられたその一言に、ヴィヴィアンの目が大きく見開かれる。 「ま、待ってくださいませ。それは結婚前から決めていたことですし、侯爵様のお手を煩わせるわけには──」 「煩わされてなどいない。……むしろ、良い機会だと思っている」 「……良い、機会?」 「君と過ごす時間が必要だと、ようやく気づいたところだ。これは、そのための一歩だと思っている」 ヴィヴィアンはしばらく、何も言えずに立ち尽くしていた。 「……わかりました。では、上司と部下ということで」 「……ふむ。それも悪くはない」 マリウスの唇が、わずかに笑みを含んで持ち上がる。 周囲の侍女たちはこっそりと手を叩き合い、ハンナがそっとエプロンを手渡した。 「では、旦那様にも“作業着”をどうぞ。汚れても良いものでございます」 「……心得た」 そうして、フロストリア家の厨房は、正式に“屋台作戦本部”として稼働を始めたのだった。 ──その数時間後、思いがけぬ来客が訪れることになるとも知らずに。 ―― クレープの生地がようやく理想の焼き加減に近づき、皆が満足げに頷いていたちょうどそのときだった。 「──奥様。アナスタシア・フローリア侯爵夫人より、謁見の申し出がございます」 控えの者が告げると、厨房にいた侍女たちの空気が一変した。 ヴィヴィアンは思わず手を止め、ハンナがそっと視線を向ける。 「……今、ですか?」 「は……はい。お急ぎではないご様子ですが、“ご都合のよいお時間に”とのことです」 マリウスは布巾を置き、エプロンを外しながら立ち上がった。 「応接室を整えておけ。──私もが参ると伝えよ」 「かしこまりました」 ―― ほどなくして、応接間。 優雅な刺繍が施されたソファに座るアナスタシア夫人は、にこやかな表情の奥に、鋭い観察の光を宿していた。 「ご機嫌よう、マリウス侯爵。ヴィヴィアン嬢。──いえ、フロストリア侯爵夫人とお呼びすべきでしたかしら」 「正式にはまだですが、お心遣い感謝いたします、侯爵夫人」 「まあ、口調まですっかり“奥様”ね。ふふ、嬉しいわ」 アナスタシアは静かに微笑むと、傍らの侍女からお茶を受け取り、香りをひと嗅ぎしてから口を開いた。 「さて……ご結婚の噂、もう耳に届いておりますわ。驚きましたけれど、納得もしております。まことに、お似合いですもの」 ヴィヴィアンが緊張の色を浮かべかけたその時、マリウスが一歩前に出て、静かに頭を下げた。 「ご配慮に感謝いたします。ですが、本日はその件ではなく──」 「ええ、バザーのこと。もちろんですわ」 アナスタシアは朗らかに微笑んだまま、真っ直ぐ二人を見つめる。 「このような時期にお手伝いを頼んでしまって、本当に申し訳なく思っております。進捗状況はいかがですか? 何かご不安や、お困りごとはございません?」 ヴィヴィアンが何か言いかけたが── 「問題ありません」 ──先に口を開いたのは、マリウスだった。 「屋台の設営も、品目の準備も、滞りなく進んでいます。夫婦で協力しながら進めておりますので、ご安心を」 「まあ……それは何より!」 アナスタシアは目を細めて笑い、ティーカップを置く。 「では、遠慮なく“ご夫妻”として、ご参加くださいますよう、改めてお願いいたしますわ 手伝いが必要な際は、私からも人を出します。遠慮なくお申し付けくださいませ」 「光栄に存じます」 マリウスのきっぱりとした返答に、ヴィヴィアンは小さく目を見開いたが──すぐに表情を引き締め、隣に並び直した。 「ご期待に添えるよう、誠心誠意尽くさせていただきます」 「ふふ。……素晴らしいわ」 アナスタシアの視線は、侯爵夫婦となった二人の立ち姿を静かに見据えていた。 それは、慈しみと、何か確かな“希望”のような色を帯びて── ──それは穏やかな嵐の前触れであった。 バザー準備の打ち合わせが一段落した夕方。 厨房の片隅で、マリウスが一冊の帳面を閉じる音が響く。 「ふむ……材料の在庫も、人員配置も整ったな」 「ありがとうございます。侯爵様のご協力がなければ──」 「……“侯爵様”か」 ヴィヴィアンが一瞬、言葉に詰まる。 「え……?」 マリウスは帳面を横に置くと、椅子を引いて立ち上がる。 そして静かに、ヴィヴィアンのほうへと歩み寄る。 「……その呼び方、いつまで続けるつもりだ?」 「どういう意味でしょう?……」 彼女の頬がほんのり赤くなるのを見て、マリウスはふと唇の端を持ち上げた。 一歩、また一歩と距離を詰める。 そして、目の前まで来ると── 彼はそっと身をかがめて、ヴィヴィアンの顔の高さに視線を合わせた。 「……“マリウス”と。」 その声は低く、けれどどこか挑むような響きを含んでいる。 わずかに悪戯っぽい光が、その双眸に宿る。 「……っ、ま、マリ……」 マリウスはさらに顔を近づける。 髪が触れそうなほど、息がかかる距離。 思わずヴィヴィアンは身じろぎし── 耐えきれず、甘い悲鳴のような声がこぼれ落ちた。 「まり…うす…様」 マリウスはくすくすと笑いながら、ふっと距離をとる。 その笑顔は穏やかで、けれどどこか、少年のような茶目っ気がにじんでいた。 「では、改めて」 そう言って、真面目な顔つきに戻る。 「──二人きりの時くらい、名前を呼んでほしい。」 (神様!正直ごめんなさい。これ以上ヴィヴィアンの心臓がもちませんっ!) 「…が…頑張りますっ」 「そうか。」 フッと笑うマリウスは厨房に背を向け、 「おやすみヴィヴィアン。」 と言い残し、自室へ戻って行った。 そして、彼の耳がほんのり赤く染まっていたことを誰も知らない…。 (神さま…私は何も成し遂げず死ぬのではないでしょうか…) そして、ぷしゅぅと音が聞こえそうなほど真っ赤に染まったヴィヴィアンが厨房に残された。 しかしそれは、確かに二人の距離が一歩、縮まった瞬間だった。 自室に戻った後、マリウスは一冊の書類を閉じ、深く息をついた。 (……何をやっているんだ、私は) 計画通りだったはずだ。 「契約の枠内で、穏やかな協力関係を築く」──それだけでよかった。 だが、今夜の自分は明らかに逸脱していた。 名を呼ばせようと、彼女に顔を寄せたあの一瞬。 (……触れたかった。いや、触れてしまいそうだった) リリィには一度として、そんな衝動は起きなかった。 まるで神殿の像を見るように、ただ崇めていたにすぎない。 けれど── (ヴィヴィアンには……) 心が、距離を求めていた。 声を近くで聞きたい。仕草を見たい。 その手がふるえるほど、そばにいたいと望んでいた。 (……まったく、愚かなことだ。彼女はそんな関係を望んでいない) 契約だ。仮初めだ。 だが── 「名前くらいは……構わないだろう」 ぽつりと呟き、天井を見上げた。 そして、静かに目を閉じる。 (なぁ、ヴィヴィアン。君は──) 彼の胸に、くすぶる問いがひとつ。 ⸻ 一方でヴィヴィアンは。 ふわふわした頭を抱えながら、ヴィヴィアンはベッドに倒れ込んだ。 (……笑ってた。マリウス様が……) あの穏やかな微笑。 あの距離で、あの声で… バカみたいにリフレインするその声──「ヴィヴィアン」と。 (ていうか至近距離で顔寄せるの、あれ反則じゃない!?美形の威力すごすぎません!?) くるくると枕に顔を押し付けながらジタバタと足をばたつかせた後、 ふと手を止めて、まじめな表情になる。 (……でも、笑ってたんだ) あの日、彼の瞳は絶望していた。何も望まない諦めを映したような。 その彼が、目の前で笑ってくれた。 (……それだけで、十分。何も望んではいけない) 彼の心にはたった1人。彼女がいるのだから この時間は「私に与えられたほんのひとときの夢」── (……マリウス様。私は、名前だけで幸せになれるのに) そして、アナスタシア侯爵夫人主催バザー当日―― 秋晴れの空の下。 屋敷前の広場は、活気と香ばしい甘い匂いで満ちていた。 「……予想以上ですね」 ふと背後からの声に、マリウスが振り返る。 そこには優美なドレスに身を包んだアナスタシア侯爵夫人。 「ええ。彼女の努力の成果です」 「年若い頃から領地経営に尽力したと聞きました。さすがの手腕…素晴らしい奥方ですわね」 その言葉に、マリウスは視線だけで応じる。 表情に大きな変化はない。だが、ほんの一瞬―― 夫としての誇りが、その瞳に灯った気がした。 陽が傾くころ、屋台の前にひときわ大きな歓声があがる。 メイドが息を切らせながら駆け寄った。 「すべて完売いたしました、奥様!」 「本当? ……ああ、よかった」 ヴィヴィアンは胸に手を当て、そっと息を吐く。 「この売り上げは、きっと子供達の未来につながりますね。アナスタシア様」 「えぇ。あなたのおかげよ。大成功だわ」 アナスタシアがそっと微笑むその横から、 低く落ち着いた声が届く。 「お疲れ様でした」 振り向くと、そこにはマリウス。 どこか少し距離を取って立っていたはずの彼が、今はすぐ傍にいた。 「…侯爵様。奥方と共にお手伝い頂きありがとうございました」 アナスタシアが一礼すると、マリウスは静かに首を振る。 「手伝っただけですよ。……ですが」 言葉を切り、ほんの少しだけ――目を細めて笑う。 「……妻の勇姿を見ることができたのが、私にとって一番喜ばしい成果ですよ」 「……っ」 ヴィヴィアンは思わず息をのむ。 褒め言葉ではない。 でも、確かにそれは“彼の心からの言葉”だった。 言葉が出ないまま、ただそっと頭を下げた。 それだけで、胸がいっぱいだった。 (私が“彼の隣に立てた”時間だった――) それが、嬉しくて。 それが、少しだけ、切なくて。 けれど、ほんの少し。 明日が楽しみだと思えた。 ―― バザーから数日後。 前日から降り出した雨が、屋敷の窓を静かに叩いていた。 その雨音に、ヴィヴィアンはふと手を止める。 「……この雨。確か、あの時も……」 一度目の人生、あの日もこんな風に雨が降っていた。 フロストリア領とライデン領の境にある川が氾濫し、近くの孤児院の子どもたちが犠牲になったのだ。 「今すぐ確認しないと……あの子たちを、みすみす死なせるわけにはいかないわ。」 ヴィヴィアンはすぐに支度を整え、使用人に向けて言った。 「川の様子を見に行くわ。旦那様への報告の手紙はここに置いたから、確認して急いで渡してちょうだい」 「畏まりました、奥様……お気をつけて」 彼女の瞳には迷いはなかった。 ― 村の集会所に着くと、村の男たちが集まっていた。 「突然失礼いたします。私はヴィヴィアン・フロストリアと申します」 「!? 奥様!わたくし村長のサムソンと申します。こんな雨の中一体――」 ヴィヴィアンは静かに語った。 「この地域は過去にも被害を受けています。……堤防が作れない事情があるのなら教えてください」 村長はしばし躊躇した後、口を開いた。 「……実は、堤防を作ろうという話は出ていたのです。しかし――その場所には、孤児院があるのです」 「なぜ孤児院を移転させないの?」 「以前、皇太子殿下と婚約者殿下が訪れた際、その子たちにとても親しくしてくださった。村としては移転をお願いしたのですが、殿下がお気に召されたとあっては……」 つまり、リリィが「慣れ親しんだ家を離れるのは可哀想」と言った一言で、計画は立ち消えになったのだ。 (美談ね。確かに小さな子供にとって環境が変わるのはストレスだわ。でも状況を考えればどうなるか…エドワード皇子なら分かるはずでしょうに!) ヴィヴィアンはすぐに指示を出した。 「安全な場所に新しい孤児院を建てましょう。必要な費用はこちらで持ちます。今すぐ子どもたちを避難させて。……この雨は、危険です」 ― 数時間後――雨脚はさらに強まっていた。 ようやくことの重大さに気づいたライデンの管理者から 報告を受けたマリウスは、急ぎ現地へ馬を走らせる。 「モリア、馬を出せ!」 「わたくしも参ります」 激しい雨の中、 雨音を裂いて、マリウスは馬を駆る。 およそあの氷銀侯爵とは思えない表情を浮かべ、彼はヴィヴィアンの元へと向かった。 現地に到着したマリウスの目に飛び込んできたのは、 泥にまみれながら、領民たちと共に仮設の堤防を支えるヴィヴィアンの姿だった。 「ヴィヴィアン!!」 「マリウス様!? なぜここへ……」 安堵と疲労からか、ヴィヴィアンはその場に座り込んでしまった。 「……っ! ヴィー……!」 彼女を抱き上げ、ずぶ濡れの体をその胸に抱きしめる。 「……あれは、君の仕業か?」 「……ええ。申し訳ございません。事態が逼迫してたとはいえ、侯爵家のお名前を使わせて頂きました。」 淡々と答えるその姿に、マリウスは胸を刺すような棘を感じていた。 (なぜ、君はそうやって1人で抱え込み自らを危険にさらすのだ…) だがその棘は、痛みと共に―― 知らず彼の中に、彼女への想いを芽吹かせていた。 「…君の判断は正しい。」 「え?」 「ヴィー。頼むから、自分の身を案じてくれ…」 「っ……!」 (愛称呼びー……っ!?) 嬉しさに、体温が一気に上がってゆく。 「……モリア、あとを頼む」 「はい。後はお任せくださいませ」 そしてマリウスは、ヴィヴィアンを、抱いたまま馬に乗り、屋敷へと戻っていった――。 ― 屋敷に戻るなり、心配が最大限に達したハンナにヴィヴィアンを奪われる。 「マリウス様も、湯を用意してございますので、お着替えください」 「あぁ…(あれはだいぶ絞られるな)」 ズンズンという音がしそうな勢いでハンナがヴィヴィアンを連れて行くのを苦笑しながら見送ると、マリウスも湯殿へと向かった。 ― 「奥様!聞いてらっしゃいますか?」 「聞いてるわ!ごめんなさいってば…」 「いいですか!お身体は大事にしてくださいませ。マリウス様なんて見たことないくらい慌てて出て行かれましたのよ!」 「…そうね。それは反省してるわ。まさかマリウス様まで巻き込んでしまうとは思わなくて」 「奥様はマリウス様を誤解してます!」 ぷりぷりと怒るハンナがヴィヴィアンに触れる手はあの日の兄のように優しかった。 ― 夜。 体も温まり、一息ついた頃。 部屋のドアを叩く音がした。 「どうぞ?」 扉を開けば、湯上がりなのだろう。いつもとは違うゆったりとした部屋着の彼がそこにいた。 彼がヴィヴィアンの部屋を訪ねるのは【結婚】してから初めての事である。 「少し、いいか?」 「あ。はい」 マリウスはソファに腰掛けると、隣りに座れと手招きをする。 戸惑いながら、隣りに座ると彼の体温が伝わってくるようで… 「ヴィー。これから先今日のようなことがあれば…」 「…申し訳なく思っております。結局マリウス様も巻き込んでしまって…」 「…っ!違う。そうではない。君のした事は正しい。だが…」 「…?」 「侯爵家の名を正しい事に使うのを心苦しく思う必要はない。君は私の妻なのだから…」 「…あの…」 「しかし、頼むから、危険に自ら飛び込まないでくれ。本当に…」 彼の感情。きつく握りしめた手をそっと取ると 「ありがとうございますマリウス様。ご心配くださって…」 そう言って彼女はマリウスに笑顔を向けた。 彼は、何かあたたかいモノに触れた気がして、ヴィヴィアンの手をそっと握り返したのだった。 きっと、2人はようやく夫婦としてのスタートラインに立てたのであろう。