水害事件から2日。 フロストリア邸 「ヴィー。今日以降で急ぎの用はあるか?」 「いぇ?特にはありませんが、何かお手伝いしますか?」 「いや。折角の休暇だし、この先このようなまとまった休暇を取れるきがしないのでな。領地内にはなるが…視察も兼ねて旅行に行こうと思うのだが…」 「…旅行…ですか?」 「あぁ。まあ…新婚旅行というやつだな。モリア。」 「はい。奥様、一応フロストリア領内の観光地や、名産品リストなどをまとめました。気になることがあれば旦那様にお伺いください。それと、こちらは視察が必要な箇所でございます。合わせてご確認を。」 (…なるほど?下準備はされてるってわけね…) 小さくため息をつくと、ヴィヴィアンはモリアが丁寧に作ったリストをペラペラとめくる。 「それから、旅行から戻ったらだが…うちの財政管理と領内管理をしてほしい。」 「マリウス様!それはっ」 フロストリア家の中核である。 「私如きにそのような…」 「モリアも年だ、そろそろ補佐が欲しいと訴えがあってな。そなたの手腕なら問題ないとおもうのだが…なぁモリア」 「はい。奥様でしたらわたくしも大分助かります」 「…しかし…」 「もちろん、ヴィーの意思は尊重しよう。だが、とりあえず一度やってみてはくれまいか?」 「畏まりました。私でお役に立てるのでしたら…」 「少々…外野もうるさくなってきたのでな。君の才を存分に披露してくれ。」 「なるほど、そういう事でしたら、お任せください」 ―前日夜 「……旦那様。少々、お耳に入れておきたい話がございまして」 「どうした、モリア」 「最近、屋敷内の使用人たちの間で“ある噂”が流れております」 「噂、とは?」 「……旦那様と奥様が“政略結婚であり、すぐに離縁されるのではないか”といった内容です。理由は──」 モリアは、少しだけ口ごもる。 「奥様が領地の管理や家の中枢業務に一切関与しておられないこと。それが“仮の妻”という印象を強めているようです」 「……なるほど」 マリウスは一度目を伏せ、深く椅子に背を預けた。 「……確かに、そう映ってもおかしくはないな。我らの結婚は契約に過ぎぬ……その内容には“ロザリス家を守る”という名目がある。たとえ建前であれ、それを果たすためには“妻”としての実績が必要か……」 「世間は、旦那様が“奥様を選んだ理由”を知りたがっております。なればこそ、“能力を見込まれて任された”という事実が、奥様にとっての防壁にもなるはずです」 「……あの子は、自らの力を誇らぬ。むしろ、関わらぬようにしている。契約ゆえに深入りすべきではないという顔をして……」 「だからこそ、旦那様からの“依頼”という形で関与させるべきかと」 「……わかった」 マリウスは静かに立ち上がった。 「どのみち、今後の政局を支えるには、あの子の知性と誠実さが必要だ。契約がどうあれ、妻である以上……私が守ってやらねばなるまい」 ―フロストリア邸正門前。 「では、旦那様、奥様お気をつけて」 「留守は任せたぞ。」 「畏まりましてございます。」 2人はフロストリア家の馬車に乗り込むと、波乱の旅路へと出発した。 「マリウス様本日はあの村に行かれるのですね?」 「あぁ。堤防の様子を確認するのもあるが、サムソン…村長が君に礼をしたいと手紙を寄越してきているし、君は何より孤児院のその後を気にしていただろう?」 モリアが作成した視察リストの一番↑にあったのが 【エルド村】ライデン領とホルスタル領の境にある小さな村。前日あわや水没しかけた村である。 「…お礼なんて、当然のことですのに。」 「そう考える君だから…じゃないのか?」 窓の外の景色を眺めながらマリウスが言った言葉は ヴィヴィアンの胸に少しだけ灯りを灯した。 「…そういうものですか?」 「あぁ。そういうものだ。」 今回の旅は、一番遠い【エルド村】から【カミサト領スイシャ村】をめぐり【ロザリス中心地ロザリア】へ行き、フロストリア邸に戻るルートとなっている。 ちなみに、フロストリア領はバルド領内あり、帝都レガリアに隣接し、【ライデン】【パレスリア】【ミシアナ】の四つの領を保有するバルド領最大の領地である。今は冬で凍てつく寒さだが、氷の祭典などもあるため見応えはバッチリである。 「アイスフェスタですか?」 「あぁ。我が領最大の祭典だ、知らないか?」 「いえ。初めて聞きました。」 「そうかならば、帰りに少し寄って行くか?」 「是非!」 「他に気になるところは?」 「…そうですね。椿…でしょうか。」 「ん?あぁ、ライデンの境にある街道か。モリアのやつそんなことまで書いてるのか」 くすりと笑うマリウス。 (うわー…マリウス様の笑顔の破壊力ヤバすぎない?椿よりずっと見てられるわ…) 「どうした?」 「あ。いえ。他には…あ。こちらは湯が沸くのですね。」 「そこは、山が近いんでな。その湯のおかげで比較的暖かい気候をしていて、雪もあまり積もらんのだ。」 「それは楽しみですね。この季節はやはり厳しいですから…」 「そうだな。」 あの日馬で駆けた道をゆったりと進む。穏やかな時間だった。 エルド村に着くと堤防工事はすでに八割方終わっており、仕上げの段階に入っていた。村長をはじめとする関係者たちが出迎え、マリウスとヴィヴィアンは順に現地を歩いて視察を行う。 「……かなり頑丈に補強されていますね。増水時の避難経路も確認済み、と」 「はい、奥様。あとは橋の下に詰まった流木の撤去が完了すれば、一応の完成になります」 「よかった……。あの時のようなことは、もう起こさせません」 ヴィヴィアンの表情が、一瞬だけ陰った。 彼女の脳裏に浮かんだのは、かつての【一周目】での出来事──この村を襲った水害と、それに続いた孤児院の悲劇だった。 それを察したマリウスが、そっと彼女の手に自分の手を重ねる。 「あの日君がいなかったら子供たちは危険に晒されていた。君の勇気と知恵に敬意を。」 「…ありがとうございます。マリウス様」 不意に口元を緩めた彼女に、村の子どもたちが気づき、手を振ってくる。 「ヴィヴィアンさまーっ!」 「あれは先月、名簿登録した孤児院の子たちですね!」 手を振り返しながら駆け寄ろうとするヴィヴィアンを見て、マリウスは柔らかく笑った。 「…君は人に寄り添う事ができる素晴らしい女性だよ…」 ―翌日 2人が到着したのは、マルクス領南端、【カミサト領スイシャ村】。 ここは山麓に位置し、冬でも比較的温暖な気候に包まれている。 雪の少ないこの土地では、古くから「地の湯」と呼ばれる天然の湯が湧き出ており、村人たちはそれを薬湯として利用していた。そのおかげで雪は積もらず、比較的暮らしやすい土地となっている。 「……ほんのりと硫黄の香りがしますわね」 湯の湧き出る小高い岩場に立ち、ヴィヴィアンが呟いた。 木々の合間から立ち昇る蒸気は白く、冷たい空気の中で幻想的な光景を描き出していた。 「これが、スイシャ村の誇る湯か。温かそうだな……手をかざすだけで癒される」 マリウスが手袋を外し、そっと湯の湯気に手をかざす。 すると案内役の村長が、申し訳なさそうに頭を下げた。 「ですが、侯爵様。この湯は年寄りどもが身体を温めるために使っているだけでして……村のためには何の足しにもならず……」 「何の足しにも、とは?」 ヴィヴィアンが問い返すと、村長はしばらく逡巡したあと、ぽつりと語った。 「昔は商人が薬湯として売るために通っていたんですが、最近は薬の開発が進み、今では旅人すら通らず…収入が減り、若い者たちは出稼ぎに……。このままでは村が先細ってしまうのではと……」 「……なるほど」 ヴィヴィアンは再び湯の岩場を見つめる。 静かに流れる水音と、周囲に咲く雪間の草花。 木製の水車がきしみながら回っていた。 (──これは、きっと“活かせる”) 「…では、湯を活かして人を呼び、もてなしましょう。」 「……と申されますと?」 「例えば、この地でしか採れない作物を料理に使ったり。温かな土産品を作ってみたり。“ここに来る意味”を一つだけではなく、重ねていくのです」 言いながら、ヴィヴィアンはスカートの裾を片手で持ち上げ、湯に手を触れた。 「……気持ちいい。この湯なら、わざわざ遠方から訪れても損はありません。疲れが溶けていくようですわ」 「……!」 村長の顔がぱっと明るくなる。 「……奥様、それは……つまり……!」 「はい。この湯は“利”になります」 ヴィヴィアンの言葉は静かだったが、確かな熱がこもっていた。 「村を支える柱が、いまここにあります。この湯を“招き”として整え、人の流れを呼びましょう。──そのために、わたくしがお力添えします」 「……なんて事だ!奥様……!」 深々と頭を下げる村長に、マリウスは隣で穏やかに微笑んでいた。 「……まったく。どんな場所にいても光を見つけるのだな」 「いえ……ただ、もったいないと思っただけですわ」 「その感覚が、民を守る盾にもなる。─君を妻にしたのは正しかったようだ」 「…滅相もない事ですわ。」 ふいに向けられた真っ直ぐな言葉。自分がいい出したこの無茶な【契約】に彼が後悔しないように心を尽くすばかりだ… ⸻ 夜──湯の村の宿にて 夕食を終えたあと、ヴィヴィアンは一人、湯の岩場の近くまで足を運んでいた。 月の光が湯けむりに反射し、幻想的な景色を生み出している。 吐く息は白く、冬の冷気が頬を撫でる。 「……また、ここに来ることができたのね」 一周目のある日。ヴィヴィアンはここに来たことがあった。 村は廃れ、少しの老人が住まうばかりでそれももう時間の問題だった。今、このタイミングで来られてよかった。 「……寒くはないか?」 「──マリウス様?」 背後に立っていた彼に気づき、ヴィヴィアンは振り返る。 「いや、君の姿が見えなかったから、少し心配でな」 「……湯の香りが心地よくて、つい」 「確かにこの香りは癖になる…だが、夜は冷える」 そう言うと上着をヴィヴィアンにかける。ふわりと香る彼の匂いがどこか安心感を誘った。 「これではマリウス様が冷えてしまいますわ」 「大丈夫だ、これでも一応鍛えてはいるから…」 二人は並んで静かに立ち、しばし湯けむりの光景を見つめる。 「……フロストリアより暖かいですね」 「そうだな。君がいてくれるからかもしれない」 ニヤリと笑うマリウスに、ほんのり頬をそめたヴィヴィアンが少しだけ抗議をする。 「……もう。すぐそうやって……」 ヴィヴィアンがそっと微笑んだとき、月が雲間から顔を覗かせた。 冬の空に咲く一輪の光が、静かに二人を照らしていた。 翌日スイシャ村での温泉誘致話を終えた二人は、ヴィヴィアンの故郷──ロザリス領内に向かった。 寒空の下にもかかわらず、そこには一面に広がる、赤く色づいた果実の楽園があった。 「……すごい……」 思わず立ち止まるヴィヴィアン。 その視線の先には、冬でも育つよう工夫された温室型の畑──ロザリス家が試験的に導入した“リリードロップ”の観光農園が広がっていた。 「よく育ってるな」 「はい。この子たち、寒さにもよく耐えてくれて……」 ヴィヴィアンの声がふっと和らぐ。 その顔は、家族を見守る母のように、優しく、誇らしげだった。 「イシュガルディアから持ち込まれた苗だったか?」 「ええ。初めは小さな実しかつけなかったのですが、ロザリスの土と水が合っていたのか、今ではこの通りです」 「これが君の成果……なのだな」 「いえ。領民の方が、ロザリスのためにと努力してくださったおかげですわ」 「君が“ロザリスの未来”を信じたからこそ、こうして実ったのではないか?」 その言葉に、ヴィヴィアンの瞳がわずかに揺れる。 マリウスは赤く色づいた果実を一つ摘み取ると、彼女に手渡した。 「ほら、口を開けて」 「……またそういう……やめてください」 苦笑しながら、ヴィヴィアンはそれを受け取る。 口元に運んだ瞬間──甘酸っぱくて、少しだけ切ない、あの時の味が甦った。 ──七年前、 ──初めてこの土地に“帰ってきた”時の記憶。 「この場所で、兄様と──話したことがあるのです」 ふと、ヴィヴィアンが呟いた。 「行動を起こせば、きっと守れる。あの時の私は、そう信じていました」 「……それはこのストロベリーフィールドの話か?」 マリウスの問いに、ヴィヴィアンは静かに首を振る。 「いいえ。……私が兄様を戦火に投じた話ですわ」 「……? それはどういう──」 言いかけて、マリウスは口をつぐんだ。 ヴィヴィアンの表情が、あまりにも悲しく、苦しみに満ちていたから。 「兄は……私の頼みに応えてくれました。 ほんとうは、兄様があの戦に行く必要はなかったのです。 ただ……私が、“ロザリスのために名を挙げてほしい”などと軽々しく言ったばかりに……」 ヴィヴィアンは、自らの胸を押さえるようにして、声を絞り出した。 「兄様の背中には、いまも消えない傷が残りました。 ……それは、どれほど痛かったでしょうか……」 しばしの沈黙ののち── 「君は、誰よりも家族のことを思っていた。その判断が間違っていたとは、私は思わない」 「でも──」 「結果、君の家は存続し、兄も生きている。そして今、こうして実りをもたらしている。 それを後悔と呼ぶのは、あまりにも酷だ」 ヴィヴィアンの視線が、ふっとマリウスを見上げた。 「……貴方は、そうやって……全部、受け止めてくださるのですね」 「当たり前だ。君は──私の妻だろう?」 その言葉に、ヴィヴィアンは思わず目を逸らす。 だが── 「……契約だから、ですよね?」 ぽつりと漏れたその言葉に、マリウスはふっと目を細めた。 「……なら、“契約”だと言い訳できるうちに、言っておこうか」 「え……?」 マリウスは彼女の前に立ち、まっすぐに見つめる。 「君の努力を、知性を、優しさを──私は尊敬している。 そして……君のことを、大切に思っている。 これは、契約とは関係ない。私自身の、意思だ」 「……っ」 ヴィヴィアンの瞳が揺れる。 「私は、“守る”と言った。その言葉に、嘘はない」 ──いちご畑に舞い降りた沈黙。 風の音だけが、静かに二人の間を吹き抜ける。 「……いけません、マリウス様」 ようやく、ヴィヴィアンが声を震わせながら答えた。 「そのマリウス様の手は……いずれ、一番大切な方のものであるべきなのです」 マリウスは、何も言わず── ヴィヴィアンの頭にそっと手を置いた。 「……私が一番守りたいのは……君だよ、ヴィヴィアン……」 頑なに拒むヴィヴィアンに、それ以上の言葉はかけられなかった。 ただ、彼女が振り向くその日まで。 彼女が、自らの心を赦す日が来るまで── ― 広間に面したテラスに、小さな焚き火が灯っていた。 冷たい風が吹き抜ける夜のロザリス邸。 マリウスは、静かに湯気を立てるカップを手にしながら、妻の兄と向き合っていた。 「……久しいな、ギルベルト殿」 「お迎えできて光栄です。フロストリア侯」 形式的な挨拶の裏に、少しだけ笑みが混ざる。 ── 「領内の視察に加え、……彼女の話も聞かねばと思ってな」 「……妹の話、ですか」 マリウスは頷いた。 「“兄に頼み、戦に出させた”……ヴィヴィアンは、そう言っていた」 ギルベルトの瞳が、炎の明かりで鈍く揺れる。 「……あの戦は、私にとって誇りです。ですが少しばかり後悔もあります」 「貴殿が負った傷は……それほどまでに深いものだったのか?」 「傷などどうでも……ただ」 ギルベルトはカップを置き、焚き火を見つめる。 「私はあの戦でたくさんの物を得ました。貴族としての立場、矜持、決意。そして友。ですが…ヴィヴィアンは。妹はこの傷を自分のせいだと責めている。これは友を守った勲章なのだと…信じてはもらえなかった。」 「……後悔…か」 マリウスは低く呟いた。 「君たち兄妹の覚悟は、確かに、家を存続させた。その点において、私は誰よりも敬意を払っている」 ギルベルトは黙って頷く。 しばらくして──マリウスがそっと問いかけた。 「……マリア殿下の話を、してもいいだろうか」 風の音が止まったかのように、空気が静かになった。 「……どうぞ」 「私は……彼女が、ロザリスに嫁ぎたがっていたことを知っていた」 「……」 「私は当時、“黒い噂”を軽んじていた。“くだらぬ風評”としか思っていなかったからだ。……だが、あれが致命的だったのだな?」 ギルベルトは唇をかすかに引き結ぶ。 「ロザリスは、功績を上げすぎたのです。“貴族に相応しくない”などという謂れもない噂が流されたのは……そういうことです」 「つまり──」 「我が家が栄えれば栄えるほど、“宮廷の誰か”が不都合だった。それでも、マリア殿下は最後まで抵抗された。……だが、間に合わなかった」 マリウスは静かに目を伏せた。 「……黒い噂の出所、心当たりは?」 ギルベルトは首を振った。 「ただの憶測ですが──功績の報告書が数度、宮廷に届かなかったことがあります。意図的に止められていたような形跡が、あった」 「……」 「誰が得をするか──そう考えれば、貴方にはもう見えるでしょう」 マリウスの中で、ひとつの名前が浮かぶ。 ──バルド公爵。 マリアを下賜され、なおロザリスを封じ続けた、あの男。 ギルベルトが続けた。 「私は──それでも、殿下が今も幸せであることを、信じたい」 その言葉に、マリウスは思わず問い返す。 「貴殿は……今でも、彼女を?」 「……生涯で、ただ一人ですから」 静かに、だが揺るぎなく返されたその言葉に、マリウスは何も言えなくなった。 そして──ギルベルトが少しだけ声を低くする。 「マリウス様。妹は……“貴方の元へ嫁ぎたい”と、私に頭を下げたのです」 「……」 「契約婚、という形を取ったことに、不満はありません。ですが──貴方にとって妹とは…?」 マリウスは一拍置いて、しっかりとギルベルトを見据えた。 「──守るべき存在として、大切にしている。…しかし、距離を計りかねているのもまた事実。彼女が健やかに暮らせるよう尽力はするつもりです。」 「そうですか」 ギルベルトは穏やかに目を伏せた。 「ならば。妹がこの結婚に“未来”を見いだしたのなら……その未来を、どうか守ってやってください」 マリウスはゆっくりと頷いた。 「必ず──」 ― 広間に朝日が差し込む頃、フロストリア夫妻はロザリス邸の玄関前に立っていた。 荷を積み終えた馬車に、ロザリス家の執事が最終確認を済ませた時── ギルベルトが、ゆっくりとふたりに歩み寄ってくる。 「マリウス様。妹のこと、よろしくお願いします」 その言葉にマリウスが軽く会釈しようとした刹那── 「ヴィー。しっかりマリウス様にお仕えしなさい。君は彼の妻なのだから。いいね?」 「っ……は、い」 背筋を正して即答するヴィヴィアン。 けれどギルベルトの声には、さらに一段深い思いが乗っていた。 「兄様は半端は許さない。……けれど、たまには二人で帰ってきなさい」 「…………っ!」 ほんの数秒の沈黙。 頬を染めたヴィヴィアンは、うつむきながらも── 小さく、けれど確かに微笑んだ。 「……はい。ギルベルト兄様」 マリウスも、目元にわずかな微笑を浮かべ、ギルベルトへと深く頭を下げた。 「──この度は、貴重なお時間をいただき、感謝いたします。ご厚情、しかと受け取りました」 ギルベルトは、ただ静かに頷いた。 テラスの焚き火は消えても、 胸の中に灯った想いは、まだ燃えていた。 ― 故郷ロザリスからライデンへと向かう途中――。 領地の境に続くその街道は、冬とは思えないほどの艶やかな彩りを見せていた。 舗装された石畳の隙間からは、まだ冷たい春風が静かに吹き抜けていく。 「気になっていたんだろう? 少し歩こうか」 というマリウスの提案に、二人は並んで歩いていた。 ……いや、正確には── マリウスが少し歩幅を落としながら、ヴィヴィアンの歩みにそっと合わせていた。 「……椿の街道って、もっと質素な道かと思ってました」 「近年、整備が進んだらしい。……君の提案した輸送路改善計画の影響もあるだろう」 「えっ……? あの予算案、もう通ってたんですか?」 「フロストリア家の名で提出されていたからな。君が関わっていたとは、あとから知った」 何気ないやり取りのはずなのに、 なぜか視線を合わせられない。 ヴィヴィアンはそっと前を向いたまま、うっすらと頬を染めていた。 「……ありがとうございます」 「礼を言うのは、私の方だ。……君の目の付け所は正しかった」 ぽつりと、マリウスがそう言ったあと。 すぐ隣で、手が伸びた。 気がつけば── 彼の指が、そっとヴィヴィアンの指先を包んでいた。 「あ……」 驚いて顔を向けると、 マリウスはまっすぐ前を向いたまま、表情ひとつ変えていない。 けれど。 手だけは、決して離さなかった。 「……こうして歩くのも、悪くないだろう?」 「……っ、はい」 心臓が跳ねた。 ヴィヴィアンは思わず、握られた手に視線を落とす。 ──どうしよう。 ──何も言ってないのに、全部が伝わってくる。 温もりも、想いも。 だからこそ、怖くて。 だからこそ、嬉しくて。 ほんの数歩のあいだ、何も言えなくなった自分を、 彼がどう思っているかも、想像するのが怖かった。 でも、マリウスは── 焦らすでもなく、急かすでもなく、 ただ隣を、同じ速度で歩いてくれていた。 風が椿の花を揺らし、 小さな赤い花びらがひとつ、彼の肩に落ちる。 「……椿は、散り際まで美しいんだな」 「……はい」 ──なんて言葉を返せばいいのか、まだ分からなかった。 けれどヴィヴィアンは、 彼の手を……ほんの少しだけ、握り返した。 それだけで、 マリウスの口元にふっと微笑が浮かぶのを、 ヴィヴィアンは気づかぬふりをした。 ──春がそこまで来ていた。 ただそれだけの街道の風景が、 一生忘れられない記憶になったのは、 隣にいた彼が、優しく手を引いてくれたからだった。 ― ──フロストリア領・氷の祭典。 「すごいですね。」 キラキラと少女のような瞳で辺りを見渡す彼女が眩しくてただ―そのまま遠くに行きそうな気がして、その手をそっと掴んだ。 「…マリウス様?」 「人混みが激しい。逸れないように…」 「そうですね。あ!あちらの屋台美味しそうですわ。」 次々と目移りする彼女にふっと笑みが溢れる。 「落ち着けヴィー 。屋台は逃げないぞ。」 振り返った彼女の笑顔がそっと私を掴む。 あぁ。私は彼女が笑うのを見るのが何よりも… 日が沈みきると、2人は買い食いを諦め フェス会場の端へ。人が少ない場所で並んで花火を見る。 掴んだ手はそのまま…どちらからも離そうとはしなかった。 じんわりと伝わる互いの体温が寒さを紛らわせている。 「マリウス様…綺麗ですね。わたし知りませんでした。フロストリアでこんな…」 頬を高揚させ、雄弁に語る彼女に…触れたい。 そんな激情がマリウスに芽生える。 気づけば、彼女の顔が間近にあった。 (…っ!?) コツン。間一髪で額を当てる。 「…ヴィー顔が赤い…」 「…さっ寒いからですよ」 「風邪を引くといけない。馬車に戻ろう。」 (たぶん…わたしも赤いのだろうな…寒さのせいなどではないが…) ―― 領地視察の旅から数日。 静かな朝、侯爵夫妻は皇帝陛下への謁見を控えていた。 「ヴィー、支度はできたか?」 マリウスの声に、部屋の扉がそっと開く。 現れたのは、いつもとは雰囲気の異なるドレスに身を包んだヴィヴィアンだった。 深みのある紫を基調に、上品な刺繍が施された一着。 気品を纏いながらも、どこか少女のような愛らしさを残すその姿に──マリウスの視線が一瞬止まる。 「マリウス様、これは……」 戸惑う彼女の言葉を遮るように、後ろから甲高い声が響いた。 「まぁまぁまぁぁぁぁ!すっごくお似合いですわヴィヴィアン様ァァァァ!」 バサァッと派手にマントを翻し現れたのは、煌びやかなドレスと濃い化粧を纏った一人の人物。 「初めまして。わたくし、マダム・スカーレットと申しますの!」 「……!? ま、マダム・スカーレット……あの、貴族女性の憧れの──!?」 「ご名答!いやぁん嬉しい♡」 見た目は“マダム”だが、よく耳を澄ませば、地の声は確かに男のもの。 それでも所作は誰よりも優雅で、衣装のセンスは群を抜いていた。 「ちょっと、マリウス。紹介が遅れてますわよ?」 「……ああ。彼──ケイト・スカーレットは、昔からの幼なじみだ。見ての通り……派手だが、腕は確かだ」 「その名で呼ぶなと言ってるでしょう!?マリウスったら!」 ケイト──もといマダム・スカーレットはぷりぷりと怒ってみせたあと、すぐにヴィヴィアンへと向き直った。 「でもヴィヴィアン様ったら……あたくしのこと、変な目で見なかった。目が綺麗だもの、分かるのよぉ、そういうの!」 「わたくし、ただ……マダムのお仕事に敬意を……」 「それが嬉しいの!本当に!」 マダムはヴィヴィアンの手を取り、ぶんぶんと振る。 「しかもね?そのドレス、ちょっとした仕掛けがあるのよぉ♡」 「仕掛け……?」 「ふふふ、気づいちゃったかしら?よ〜く見て?」 ──言われてマリウスを見ると、彼の上着の裏地、襟元、そして袖口の装飾に、同じ紫の生地が使われていた。 「えっ……お、揃い……?」 「そう。お揃い!ラブラブカップルはお揃いに限るでしょ!」 マダムはにっこりと笑いながら、マリウスに近寄る。 「マリウス、おまえも似合ってるわよぉ」 「……」 「ほらほら、もうちょっと嬉しそうな顔なさいよ〜?せっかく奥様の前でペアコーデなんだから!」 「……派手すぎないか?」 「うるさいわね!いいから黙って着なさい!」 バシッとマリウスの肩を叩くと、マダムはヴィヴィアンにもう一度笑いかけた。 「ヴィーって呼んでもいいかしら?あたくし、気に入っちゃった!」 「え……あ、はい……構いません、マダム……」 「ありがと♡じゃ、何かあったらいつでも呼んでちょうだい。あなたなら、歓迎するわ……あの子と違ってねぇ」 その“あの子”という謎の言葉に、マリウスが一瞬眉を動かす。 ──が、マダムはそれ以上語らず、艶やかに手を振って去っていった。 「……相変わらずだな、あいつは」 「え、えっと……その……お揃い、ですのね?」 ヴィヴィアンが俯き、頬を染めながら視線を泳がせる。 マリウスは少しだけ咳払いをしてから、短く頷いた。 「……よく、似合っている」 その一言に、ヴィヴィアンの顔がさらに赤くなった。 「っ……ありがとうございます……」 部屋の外、遠ざかるマダムの笑い声が聞こえる。 ― ──王宮・応接間 「ほう……それが“嫁”か」 ふたりを出迎えた皇帝は、まるで我が子の伴侶を観察するように、じっとヴィヴィアンを見つめた。 その眼差しは鋭くも、どこか温かい。 「ふむ。肝が据わっておるな。マリウスには、ちょうど良いか…」 「……恐れ入ります」 「褒めておるぞ、ヴィヴィアン嬢。そなたの功績も伝え聞いておる。」 (──まるで、娘を迎えた父のようなお言葉ね) 横で微笑むヴィヴィアンに、マリウスが静かに言葉を挟む。 「陛下。お戯れはお控えください」 「戯れてなどおらんぞ。おぬしが“動じる顔”を見せるなど、珍しいからな」 「……」 「──そうそう。土産だ。受け取ってやってください」 ヴィヴィアンが差し出したのは、丁寧に包まれた小箱。 「ロザリア産の果実、“リリードロップ”でございます。冷やしてございますので──」 「……甘いのか?」 「はい。マリウスにも、“こんなに甘いものがあるのか”と驚かれました」 「……ふむ。ならば、夜の楽しみに取っておこう。書類仕事の合間にな」 そう言って笑った陛下に、マリウスがほんの一瞬だけ眉を下げたのを、 ヴィヴィアンだけが見逃さなかった。 「良き旅であったようだな。見ればわかる」 そう言って、皇帝はふたりを交互に見つめ、ゆっくりと頷いた。 「──これより先は、ふたりで支え合ってゆけ。国も、領地も、そして互いの人生も、だ」 ――人生…ふたりに残されたのは時間はあと3年に満たない。 それでも【約束の日】までは共に歩もうと誓った瞬間だった。 ──王宮・中庭 謁見を終え、帰路につこうとしたそのときだった。 ふと、白い日傘が風に揺れるのが視界の端に映る。 華やかな薔薇のアーチの下──ひとりの少女が、まるで待ち伏せしていたかのように、そこに立っていた。 「まあ。マリウス様……いえ、フロストリア侯爵夫妻、ですわね?」 振り返ったその人影に、ヴィヴィアンは自然と背筋を伸ばした。 金の巻き髪、繊細なドレス。 ──リリアン・イシュガルディア。皇女殿下。 「こんなところでお会いできるなんて。神様が引き合わせてくださったのね」 「……リリアン皇女殿下」 マリウスが名を呼ぶが、表情は変えない。 「陛下との謁見、いかがでした? 陛下は……おふたりを歓迎しておられました?」 「ええ、とても温かく」 そう答えたヴィヴィアンに、リリィはふわりと笑いかける。 けれどその笑みには、どこか測るような色が混じっていた。 「それはようございました。──紫のドレス、とてもお似合いですわね。少し意外でしたけれど」 「ありがとうございます。お褒めに預かり光栄です」 「ふふ……。わたくし、てっきりもっと落ち着いた色がお好みかと」 (……思っていた方と、少し印象が違う) ヴィヴィアンはそう思いながらも、口元に笑みを湛えたまま頭を下げる。 憧れの人──そう思っていたはずなのに。なぜだか、胸の奥が微かにざらついた。 「そうそう……侯爵様」 リリィが、わざとらしくマリウスへ向き直る。 「わたくし、時々思い出しますの。あなたと踊った夜会のことを」 「……」 マリウスは何も言わない。ただ視線を落としたまま、動かない。 「まぁ、もう昔のことですけれどね。今は──ご結婚もなさって、幸せそう」 言葉の最後に「よかったですわね」と付け加えるように、リリィは微笑んだ。 だが、どうにもその笑顔はヴィヴィアンには届かなかった。 「ところで……最近、アスランが少し騒がしいと耳にしましたの」 唐突な話題に、ヴィヴィアンが一瞬だけ視線を上げた。 「騒がしい、とは?」 「いえいえ。わたくし、ただの噂好きですの。真偽はわかりませんわ。でも、少し物騒だと──聞いただけ」 「そうですか。ご忠告ありがとうございます」 「ふふ。奥様って、やっぱりお優しい方なのね。……では、またどこかで」 ひらりと日傘を翻し、リリィは花のアーチをくぐって去っていった。 ──その背を見送りながら、マリウスが静かに呟く。 「……変わらないな」 「……え?」 「いや。こちらの話だ」 ヴィヴィアンは何も問わず、ただ彼の隣に並ぶ。 「帰りましょう。少し、風が冷たくなってきましたわ」 「……ああ。帰ろう」 ふたりは並んで歩き出す。 去り際、ふと振り返ったヴィヴィアンの瞳に、アーチの奥で振り返る金髪の姫の姿が映っていた。 ―フロストリア邸・夜の執務室 執務室には暖かな灯がともり、書類の束が静かに整えられていた。 「……アスランが動いている」 マリウスがふと呟いた。 ヴィヴィアンはそっと顔を上げる。 「最近、貿易便が止まりつつある。正式な通達はないが──探っているのだろう。レガリアの内情を」 それきり、マリウスは口を閉ざした。 指先で報告書をめくる音だけが、空気を裂くように響く。 ヴィヴィアンはその背を、黙って見つめていた。 (……マリウス様は、外交に出られる) (前回は水害の対応で動けなかった。でも、今回は──わたしが水を止めたから) (彼は行けてしまう。誰よりも適任で、誰よりも国を思う人) そう気づいた瞬間、胸の奥が冷たくなった。 (──また、大切な人を戦地へ送り出すことになるの?) (前と同じように……わたしが選ぶことで) マリウスの横顔に、彼女は何も言えなかった。 ただ、心の中で静かに繰り返す。 (外交は鍵になる……それは分かってるのに) 灯りが揺れた。 ふたりの間に流れるのは、静かな夜の気配だけだった。 ⸻翌朝。 フロストリア邸の朝は静かで、窓から淡い光が差し込んでいた。 朝食の後、執務室の前。 マリウスに、ヴィヴィアンは切り出した。 「……アスランと、正式な外交が始まる可能性があります」 「そうか」 マリウスは一瞬だけ目を伏せ──すぐに決めたように顔を上げる。 「ならば、私が行こう」 (……やっぱり、そう言う) ヴィヴィアンは何も言わず、ただ頷いた。 (他に方法が思いつかなかった。きっとこうなると分かっていた) (でも──それでも) 「外交の成功のために、わたくしも少し、調べてみます」 マリウスは振り返った。 「……?」 「あの国と繋がっている貴族が、いないとも限りませんから」 「……気をつけろ。無理はするなよ」 それだけを告げ、マリウスは執務室に戻っていった。 扉が閉まり、ひとり残されたヴィヴィアンは、小さく息を吐いた。 ⸻ ──邸内の別室。 「……なるほど。で、その“裏”を嗅ぎ回れと?」 ルーが呆れたように眉を上げる。 「お願い。急いで」 「ふん。あんたには逆らえねえからな」 「…お得意様ですからね。」 「まあ、いいだろ。どうせまたあのたぬきが絡んでそうだしな。」 「…化かされないようにね。」 笑ってごまかしたヴィヴィアンの目は、真剣だった。 (せめて、彼の外交が成功するように) (今度は──絶対に、失敗させない) ──数日後。 氷銀侯爵マリウス・フロストリアは、休暇を終えて正式に政務の場へと復帰した。 執政庁での登壇。 厳かな空気の中、皇帝直轄の任命が読み上げられる。 「──アスラン王国との外交使節として、フロストリア侯爵に命ずる」 応えるマリウスの声は静かで、確かだった。 その瞬間、彼の中にあった私的な時間はすべて閉じられ、 “公人”としての仮面が再び完璧に被せられた。 ⸻ ──その日の夕刻、フロストリア邸。 執務から戻ったマリウスは、執務室の扉を開くと、手短に伝えた。 「──正式に決まった。アスランとの外交は私が行く」 ヴィヴィアンは、すでに知っていたかのように静かに頷く。 「お疲れさまでした。……お早いご決断でしたわね」 「帝命だ。速やかに動かねばならない。──準備は始めている」 「わたくしの方でも、進めていることがあります。報告は後ほど」 「……ああ、頼む」 ふたりの視線が一瞬だけ交わり── それきり何も言わず、マリウスは資料の束に目を落とした。 政務に戻った男と、その背を静かに見つめる女。 言葉は交わさなくとも、 互いが見据える先は、もう同じだった。 ──フロストリア邸・人目のない廊下 「ヴィヴィアン。」 姿を現したのは、いつもの気怠げな表情のルー。 だがその手にある封筒には、確かな重みがあった。 「例の密輸ルート、ひとまず洗った。まだ全容じゃねぇけど……怪しい名前は出てきてる。 あんまりキレイな連中じゃねぇ。アスランとの繋がりも、なきゃおかしい」 ヴィヴィアンは何も言わず、そっと受け取る。 「……わたしが使うのではなく、マリウス様に託します」 「へぇ?」 ルーは眉をひそめる。 「外交の場で……彼なら、この情報を武器にできる。 “話し合い”に必要なのは力じゃない。“確かさ”よ」 「ふーん。らしいな」 ルーはふっと息を吐いて肩をすくめた。 「ま、あの人なら上手く使うだろ。お前がそこまでしてんだ、負けるなよって感じだな」 「……ありがとう、ルー。何かの役に立てばいいのだけれど」 ⸻ ──中庭 旅支度を整えたマリウスの肩に、紫のリボンをつけた一羽の鷹が止まっていた。 「……まだ、怒ってるの?」 アイオンは不満げに小さく鳴いた。 「離れるのは不本意でしょうが……今回は“任務”です」 「鷹にまで任務を負わせるのですね」 「任務でなければ行ってくれませんから…」 そう言って、ヴィヴィアンは小さく笑った。 「この子は強くて優秀で、何より忠義深い。……わたしより、ずっと」 「ならば、あなたの想いをうけとりましょう。」 マリウスが応じたその声に、どこか柔らかい響きがあった。 ヴィヴィアンは懐から一通の封筒を取り出した。 「……ルーからの情報です。密輸の証拠になりそうなものが少し。まだ不確かだけど……」 封筒を差し出す指先に、ほんのわずかな震え。 だがそれをマリウスが言及することはなかった。 「ありがとう。何かの役に立てよう」 それだけを告げて、彼はアイオンの頭を軽く撫で、馬車へと歩を進めた。 ⸻ その背を、ヴィヴィアンはまっすぐに見送った。 (彼が行くと決めたのなら、私は支えるだけ。そう、決めていたのに) けれど──心の奥底で、別の声が囁いた。 (……ほんとうは、私が──行かせてしまった) (水害を止めたことも、外交の可能性を話したことも、密輸情報を渡したことも──全部) (彼は、自分が敷いた道を歩いていっただけ) 喉元に込み上げる言葉は、「いってらっしゃい」ではなかった。 (……ごめんなさい) 胸の奥でだけ呟き、 彼女は静かに、邸へと戻った。 ⸻ ──数日後・朝食の席 「……あら」 ヴィヴィアンは手にしたフォークを見下ろした。 皿の上には、冷めたままのパンと果実。 たったひと口だけ口にして、あとは手が進まなかった。 (お腹が空かない……わけじゃないのに) (何を食べても、味がしない) そんなこと、誰にも言えない。 気丈にふるまい、笑って、言葉を交わして。 誰も気づかないように、いつもの“奥様”を演じていた。 ──ただひとり、モリアを除いては。 給仕が下がった後、モリアは一礼し、何も言わずに静かに部屋を後にした。 ⸻ ✉️数日後・外交先・マリウスの元に届いた手紙 ──アスランへの道中、宿営地にて。 文書の束に混じって届いた、一通の手紙。 送り主はモリア。丁寧な筆致で、淡々とした報告。 「侯爵様、奥様は変わらず邸にてご指示をくださっております。 ただ、ここ数日、食が細くなられておいでです。 体調にご留意くださいますよう──とは申しません。 侯爵様には、お察しのことと思います」 その文を読み終えたあと、 マリウスはしばし手を止めて、ただ静かに封を閉じた。 ──筆は取らなかった。 けれどその夜、彼はいつもより早く蝋燭を消し、 その心の中で、何かを強く、深く、静かに噛みしめていた。 ──アスラン王国との外交交渉が始まった。 マリウス・フロストリア侯爵は、帝国の正使として堂々と会談に臨んでいた。 対するアスラン王国の筆頭交渉官は、冷静沈着で知られるサリム・ネーラン。 一言一句が駆け引きとなる、神経をすり減らす初日だった。 「レガリア帝国は隣国との平和を望むと仰るが……」 「もちろんです。ただ、アスラン側に“不正な物資の流入”があったことは、ご存知でしょうか?」 ──その場の空気が、わずかに張り詰める。 火花を散らすような視線の応酬。 だがマリウスは、怯まない。冷静に言葉を重ね、巧みに論を展開する。 (……この交渉、手応えはある) (ただし、ほんのわずかな油断が命取りになる──) 交渉の裏側で、マリウスの心に浮かんでいたのは、留守を託した妻の顔だった。 ⸻ ⸻ 夜、使節団の宿舎にて その夜。疲労の色が部屋の空気に染み込む中、 マリウスはひとり机に向かっていた。 視線の先には、真っ白な便箋。 手を伸ばしかけては止め、筆を取ってはまた置く。 ──そんな動作を、何度繰り返しただろうか。 (……書くべきか、書かざるべきか) 想いは、言葉で交わすべきものだと信じてきた。 それを文字に託すのは、自分らしくない──そう思っていた。 だが、どうしてもあの時の彼女の表情が頭から離れない。 迷いながらも、彼を信じて送り出したヴィヴィアン。 笑っていたが、その瞳は確かに揺れていた。 (……君が俺を信じてくれたなら、 その選択が間違いじゃなかったと、証明したい) そう思った瞬間、マリウスは静かに筆を取った。 ⸻ 【マリウスからヴィヴィアンへの手紙】 ヴィヴィアンへ 君が差し出してくれた情報は、まさに今、必要としていたものだった。 感謝している。 ルーの動きも見事だった。君が任せたのだから、当然の結果だろう。 ……さて。 これは“君のために書く手紙”だ。 他に書くべき内容は山ほどあるが、それは後回しにする。 君が、この決断を悔いていないか──それだけが気がかりだった。 君の胸にわだかまるものがあるなら、それは違うと伝えたくて、筆を取っている。 君が「行ける」と判断したから、私はここに来た。 そして、私自身も「行きたい」と思った。 ギルベルト殿の話を思い出したんだ。 君が兄を戦地に送ったことを、今も悔いていると──。 だから私は、違う未来を証明したい。 君が信じた選択は、間違いじゃないと。 これは私の意志だ。 どうか、自分を責めないでほしい。 ……そして、もうひとつ。 君に、会いたい。 マリウス ⸻ 手紙を書き終え、マリウスは静かに呼びかけた。 「……持って行ってくれ、アイオン」 ぱさり、と音を立てて机に降り立ったのは、白銀の鷹。 だがその目は、明らかに抗議していた。 「……“任務中”なのは分かっている」 「お前がここにいるのは、ヴィヴィアンが命じた私の“護衛”のためだ。だが──」 マリウスは視線を逸らさず、真っ直ぐに言った。 「彼女に届けたい言葉がある。 この手紙は──お前にしか託せない」 アイオンは鳴いた。 迷い、不満を滲ませるように羽をばたつかせる。 だがその時──マリウスがふっと笑った。 「……彼女の方が、大事なんだ」 静かなその一言に、アイオンは動きを止めた。 数秒の静寂。 やがて翼を広げ、くちばしで手紙を括りつけると── 音もなく、夜空へ飛び立っていった。 ──朝、フロストリア邸・書斎 その日、ヴィヴィアンは朝食に手をつけなかった。 気丈に振る舞っていたが、 マリウスを送り出した日の夜から、ふとした瞬間に言葉が出なくなる。 食卓で。書斎で。湯船の中で。 思考が空白になるたび、胸の奥に広がる“あの後悔”が、 静かに、けれど確かに彼女の心を締めつけていた。 (……また私は、“行かせてしまった”) ──その時。 ばさり、と窓辺に風を切る音。 「……?」 顔を上げると、そこには見慣れた影── 「……アイオン?」 くちばしで背中の筒を示し、小さく鳴く。 中には、丁寧に折りたたまれた一通の手紙があった。 震える指でそれを受け取り、封を開ける。 ──そこに綴られていたのは、 マリウスからの── いや、“マリウスそのもの”とも言える確かな想いだった。 読み進めるうちに、ヴィヴィアンは動けなくなった。 膝の上の手紙を、ぎゅっと握りしめたまま。 こぼれる感情が、胸に溢れて止まらなかった。 (……ずるいわ、そんなの……) ポタリ、と膝に雫が落ちる。 気づけば、目が滲んでいた。 「……っ」 ぎゅっと口をつぐんで耐えようとする。 けれど、こらえきれない。 今までずっと言わないようにしていた言葉が── ついに、こぼれた。 「……会いたい……私だって……!」 思いきり泣きじゃくることはできない。 けれど、声を震わせながらも、 言葉だけはどうしても止められなかった。 「……あなたがいないと、こんなにも、こんなにも苦しいのに……」 肩を震わせ、胸元をぎゅっと掴む。 思い返すのは、視察旅行で並んで歩いた時間。 何気ない会話。ふとした仕草。 視線を交わすだけで心がほどけた、あの時間たち。 (……なんで……どうして、こんなに……) 強くなると決めたはずだった。 もう誰にも頼らず、誰のせいにもせず、歩いていくと── それなのに。 「……さみしい……マリウス……」 喉が詰まるような声で、そう絞り出したとき── アイオンが、そっと傍に寄り添った。 言葉は発さず、ただ、そこにいてくれるように。 ヴィヴィアンは、そのあたたかな翼の温もりに身を預けるように、 ゆっくりと目を閉じた。 「……ありがとう、アイオン……」 涙の跡が残る頬に、微かに笑みが浮かぶ。 「大丈夫よ……ちゃんと、届いたわ」 夜の静寂の中で、彼女の呟きだけが、そっと揺れた。 (……本当は少し、気づいてたの) 彼の瞳が、手が、言葉が── 私を想ってくれていたこと。 でも私は、気づかないふりをしていた。 言い聞かせていたの。 ──「彼は、私のものにはならない」って。 だけど。 少しだけ、欲張ってもいいかもしれない……。 そのためには、私も── すべてを打ち明けなくちゃ。 (……その前に、私がやるべきことがある) ヴィヴィアンの瞳が、ゆっくりと前を向いた。 その横で、アイオンが小さく鳴いた。 ──新たな夜明けに向かう、静かな決意が、そこにあった。 ──フロストリア邸・朝 「……いただきます」 久々に向き合う朝食の席で、ヴィヴィアンはナイフとフォークを手にした。 昨日まで、ほとんど喉を通らなかった料理。けれど、今日は違う。 マリウスの手紙が届いたあの夜── 泣いて、抱えていた想いを吐き出した彼女は、ようやく前を向けることができた。 (私の……やるべき事は決まっている。マリウス様を“生かす”こと。) ──マリウスが命を懸けて外交に立っている。 ならば、自分にもできることがある。 そして、それを成さなければ、彼と同じ場所には立てない。 ** ──フローリア侯爵家・応接室 「……お願いがあります、アナスタシア様」 ヴィヴィアンは真っ直ぐに頭を下げた。 「公的な、社交パーティーを開いていただけないでしょうか。 できれば、イグナティア家と縁のある貴族層を中心とした、公式の場に──」 「ふふ。随分と本気の顔をしてるのね、ヴィヴィアン嬢」 紅茶を口に含んだアナスタシアは、愉しげに微笑んだ。 だがその瞳は、しっかりと真剣なヴィヴィアンの決意を見据えていた。 「いいわ。ちょうど“集まりたい”と思っていたところよ。理由は聞かないけれど……。 その代わり、あなたにはその覚悟に見合う振る舞いを期待するわね?」 「……はい。必ず、果たしてみせます」 ** ──フロストリア邸・中庭 「ラインハルト殿への件……実行する気か?」 「ええ、兄様。そろそろ頃合いなの」 ギルベルトの問いに、ヴィヴィアンは静かに頷いた。 「あの日の誓いは、必ず成就させるわ……」 「……お前は、また強くなったな」 低く呟いたその言葉に、ヴィヴィアンはふっと微笑みながら言った。 「ふふ。兄様がいてくれれば、怖いものなんてないわ」 ──一度目の人生で失った、大切な家族。 兄様だけは、今度こそ──私が必ず幸せにしてみせる。 ** ──その日、ルーからも最後の情報が届いた。 「例の取引記録、見つけたぞ。手紙のやり取りも──物証としては弱いが、心証は十分動かせる内容だ」 「ありがとう、ルー……。あなたが動いてくれたおかげよ」 「……ヴィヴィアンが、そうさせたんだ。俺の力だけじゃねーよ」 帽子を深くかぶり直し、照れ隠すように笑うルー。 その笑顔が、ヴィヴィアンの背をもう一度押してくれる。 ** ──街・マダムスカーレットのアトリエ 「ええっ!? また急なこと言うわねぇ! でも、好きよそういうの!」 「ふふ。相変わらずですね、マダム。……でも今回は、“見せつける”ドレスをお願いしたいの」 「見せつける? 誰に?」 「……味方にしたい人に、です。私には、その価値がある──と」 マダムは一瞬目を見開いたのち、 にやりと妖艶に笑った。 「いいわねぇ! 燃えてきたわ!」 ** ──そして、舞踏会の幕は上がる。 会場はフローリア家の豪奢な大広間。 貴族たちが集い、笑い声と楽の音が満ちる中── ヴィヴィアンは真紅のドレスを身にまとい、ギルベルトの腕を取って現れた。 後ろにはルーが控え、視線の先を冷静に見渡している。 その姿は、誰の目にも圧倒的で── もはや“ただの子爵令嬢”ではない。 堂々たる侯爵夫人としての気迫を、その一歩ごとに放っていた。 ** ──イグナティア家関係者が、次々と挨拶に訪れる。 その中に、ラインハルト・イグナティアの姿もあった。 「ラインハルト様。兄が大変お世話になっております。そして……」 ヴィヴィアンが視線を向けたその先に、 銀縁の眼鏡をかけた、落ち着いた威厳を湛える男性の姿。 ──彼こそが、イグナティア公爵・エルネスト。 「初めまして、閣下。 フロストリア侯爵夫人──ヴィヴィアン・フロストリアと申します」 深々と礼を取るヴィヴィアンに、公爵は目を細めて頷いた。 「……よい面構えをしているな、フロストリア侯爵夫人。 我が家の者たちが“会っておくべき”と言っていた理由が、少しわかった気がする」 その言葉に、ギルベルトも満足げに微笑む。 ──そして。 ──舞踏会・後半。フローリア家 大広間・別室 イグナティア公爵・エルネストは、自ら望んで別室へと移動していた。 彼が指で示したソファに、ヴィヴィアンは丁寧に腰掛ける。 「さて。舞踏会の場では話しきれまい。……君が本当に望んでいることは何だ?」 一切の遠慮も飾りもなく──それが、イグナティア公爵・エルネストの流儀。 ヴィヴィアンは深く息を吸い、真正面から視線を合わせた。 「……協力をお願いしたくて参りました。 貴家に繋がる方々の“力”が必要なのです。私が──“真実”を明らかにするためには」 「真実、とは?」 「──ロザリス家を襲った陰謀。そして、その裏にいる者の存在です」 その瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。 エルネストは眉一つ動かさぬまま、重々しく問う。 「名を出せ。誰だ?」 「……シャルル・ド・バルド公爵──です」 一拍の間。 重たい沈黙の中で、ヴィヴィアンの言葉だけが鋭く、真っすぐに突き刺さる。 「証拠はあるのか?」 「まだ、決定的ではありません。ですが、確実に“積み上がって”きています。 不正取引の記録、手紙のやりとり……我が家の情報屋が得た証言も。 そして、それらの取引先の一部に、“他国の影”が見え隠れしています」 エルネストの瞳が、鋭く細まる。 「アスラン王国か?」 「その可能性が高い、と。密輸・不正資源ルートが確認されました。 ですが今は、その“関係性”までを公にするにはまだ早い。 ただ──私は、必ずすべてを明るみに出します。 だから……その時まで、貴家の“目”と“力”を、貸していただけませんか?」 ** ──ヴィヴィアンは、真正面から言った。 「後ろ盾になってくれ」ではなく、「力を貸してほしい」と。 ──誰かの名を借りるのではなく、自らが動き、戦う覚悟を示すために。 ** エルネストは一瞬、目を伏せた。 その静けさが重たい沈黙となってヴィヴィアンを包む。 (……やはり、まだ足りなかったかしら……) だが──その不安を打ち消すように、低く、重厚な声が響いた。 「なるほど。……君の言葉には、“恐れ”がない。 そして、力もないままに吠えている愚か者でもない。 ……まさに、“政治”に立つ者の面構えだ」 「……!」 「──よかろう。見せてもらおうか、君の正義と信念とやらを」 それは、ただの賛同ではなかった。 **イグナティア公爵の“試練”**であり、“挑戦”であり──同時に、信頼への一歩だった。 「娘を預けよう。……クラリス。出なさい」 ──戸の向こうから、静かに歩み寄ってくる少女。 地味な衣装、物静かな雰囲気。だが、どこか“只者ではない”風格を纏っていた。 「クラリス・イグナティア。お前に、この女の行動を見届けさせる。 貴族たる者が、何を成し、何を護るべきか──学んでこい」 「はっ。仰せのままに」 その声は凛と澄み、瞳は──火を灯したように強い光を湛えていた。 ** ──それは、“紅い流星”と呼ばれた少女。 戦場に一度だけ姿を見せ、圧倒的な戦果を残し、伝説となった存在。 彼女の名は、クラリス・イグナティア。 貴族の理想と正義の名のもとに── ヴィヴィアンとともに、真実のための戦いが始まろうとしていた。 ──舞踏会の夜は、静かに幕を閉じた。 真紅のドレスを纏い、ギルベルトと共に現れたヴィヴィアンの姿は、まさしく“もう、ただの子爵令嬢”ではなかった。 その気迫と存在感は、貴族たちの中に確かな印象を刻み── イグナティア公爵エルネストもまた、娘クラリスと共にその姿を見届けていた。 「……あの若さであれほどの胆力とは、フロストリア侯爵夫人。名に恥じぬ人物だ」 公爵の言葉に、クラリスがひとつ頷いた。 その夜の“舞台”は、確かに成功だった。 ** ──数日後・ロザリス家 ヴィヴィアンたちは、フロストリア家ではなくロザリス家に集まっていた。 マリウスが不在の今、あくまでフロストリア家は政治的中立を保ち、動きの中枢はロザリス家が担うべきという判断だった。 「……情報が揃った。ルー、お願い」 ヴィヴィアンの言葉に、ルーが資料を手にする。 「まず、これがバルド家に関わる取引記録。相手はアスラン王国の裏業者だ。名目は物資援助だが、実態は兵器や人身売買に近い」 「……隠蔽工作も雑だな。貴族とは思えん」 ギルベルトが眉をひそめる。 ルーは続ける。 「それから、あんたに渡した人物情報。あれ、バルドの“愛人”だった女だ。二年前に子を産んでる。その子が“マリア様の子”として、バルドの後継にされてる可能性がある」 ヴィヴィアンの瞳が静かに揺れる。 (あの女は……リリィと仲良くしていたあの侍女) 一周目、ヴィヴィアンが“宮廷の端”で見てきた記憶が、ルーの報告と繋がっていく。 「……リリィと、その愛人……一緒にいるのを見たことがあるわ…」 「ふむ。親交はあると見ていいな」 「だとしても、問題はエドワード殿下だ」 ギルベルトが机に拳を置く。 「リリィとバルドの関係は不透明。だが、エドワード殿下が“知っていた”ならば問題になる」 「逆に……知らなかった場合は?」 ヴィヴィアンが口を開く。 「白のまま、皇太子として“使える”なら、それもひとつの選択肢。 でも、見誤れば取り返しがつかない……」 その言葉に、ルーもギルベルトも頷いた。 ──緊張が走る空気の中で、クラリスが静かに言う。 「……必要なら、あたしが“動いても”いいけど?」 彼女はまだ若い。だが、軍関係者の間では“赤い流星”として知られた伝説を持つ。 その名にギルベルトとルーが反応する。 「…クラリス…?」 「なんだ、名乗ってなかったのか。お前、戦場の伝説じゃねぇか」 「う、うるさいな……ただの試験演習だったし……!」 耳まで赤くして顔を背けるクラリスに、場が少しだけ和んだ。 ** そして、ギルベルトが口を開く。 「……僕は、マリアを奪還する」 静かで、けれど決して揺るがぬ決意だった。 「皇女である彼女を、バルド家の檻に閉じ込めておく理由はない。 二年前に後継ができたと聞いてから、誰も姿を見ていない。 ……おかしいと思わない方が不自然だ」 「……ええ。私も、そう思っていました」 ヴィヴィアンも頷いた。 (誤った形で“母”にさせられ── それでも声を上げられないまま…) 「兄様。私はあの日マリア様を私の義姉にすると決めました。だから必ず救います。」 「ありがとう、ヴィー」 ** ──その夜。 ヴィヴィアンはひとつ、決意を固めていた。 (エドワード殿下……あなたに、お会いします) リリィとバルドの繋がり。 マリア様の行方。 子供の母親… そして── 皇太子として、白であるのなら。 この国を守るために、利用させてもらう。 「マリア様に……最近、お会いになりましたか?」 ヴィヴィアンはエドワード皇太子と対峙していた。 ──アスラン王国との外交交渉、三日目。 「……これで、最後の確認だ。 “船籍”で運ばれた積荷の中に、 軍用品に準ずるものが含まれていた証拠は、すでに掌握している」 静かながらも、鋭く突きつけられるマリウスの言葉に、 サリム・ネーランのまなざしが揺れる。 「……侯爵殿。まるで“味方”のように振る舞われますが、 まさか本気で、我らの証言を必要とされているのですか?」 「必要なのは、“真実”だ」 即答だった。 一切の感情も利害も交えないその返しに、 サリムは深く、肩の力を抜いた。 「……どうやら、本物の“政”をする方のようだ。 ……わかりました。こちらとしても、 “手を切る理由”が必要だったところです」 「感謝する。貴国に不利益が出ぬよう、証言内容は配慮する。 あなたが“正しさ”を貫いた記録として、帝に報告しよう」 「……フロストリア侯爵殿」 「なんだ」 「お会いできて、良かった。──では、失礼」 サリムが立ち去った瞬間、 空気に、微かな風が吹いた気がした。 (──これで、ようやく……) 長い三日間だった。 政治交渉など、疲れて当然のはずなのに。 なのに、なぜか“あの姿”ばかりが浮かぶ。 (ヴィヴィアン……君は、今何をしている?) 少しずつ、彼女が“気配”から“存在”に変わってきている。 (あの手紙……受け取ってくれたろうか) (ちゃんと……笑ってくれただろうか) そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ愛おしい。 ──と、そこへ。 「侯爵様! 馬車の準備が整いました!」 「ありがとう。すぐに向かう」 しかし── その帰路で、ひとつの“小さな不穏”が彼を待っていた。 ** 帰路の峠道。 レガリア領へ向かう山間で、マリウスの馬車がふいに停まる。 「何があった」 「……失礼を!馬車の車輪に細工がされていたようです。 外れた螺子が、わざと緩められていた痕跡が──」 「……誰にも気づかれずにやれる芸当ではないな」 静かに腰の剣に手を添える。 ──だが、襲撃はなかった。 狙われたのは“命”ではない。“足止め”だった。 (……時間を稼ぐことが目的か) マリウスは即座に指示を出し、別ルートを取る。 ほんのわずかなトラブル。 だがそれは、彼が“確かに見張られていた”証左だった。 (バルド……いや、違う。 これは、皇宮の内側からの動きか……?) 嫌な予感だけが、確かに胸に残る。 ──しかしそれでも、帰らなければならなかった。 あの場所へ。 あの“ただいま”が待つ場所へ